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富士描く

  • sakae23
  • 7月3日
  • 読了時間: 8分

「おやじさんにも困ったもんだよ」

荷車に最後の荷を積み込んだお栄は、弟子の為一に向かってため息をついた。

もう何度目の屋移りだろう。五十回をゆうに超えているから数も思い出せない。片付けの出来ないのは親譲りと開き直るお栄だが、屋移りをする手間には何度やっても辟易する。

「達者なのは何よりではないですか」

為一は慣れた手つきで荷を縛りつけた。今度の住まいはほんの二丁ほど先の裏長屋で今よりも狭いとお栄は言う。

荷は最小限にするようにと北斎は言うが、元よりそれほどの荷はありはしない。冨嶽三十六景を書き上げた北斎はその時の号をこの為一に譲り自らを卍、時に「画狂老人」と名乗っていた。

冨嶽三十六景は人気を得て、北斎もそれなりの金子を手に入れたはずではあるが、暮らしぶりは相変わらずである。北斎も、あろう事かお栄までがゴミ屋敷と化した部屋で寝食を忘れて絵筆を取る有様だ。

「屋移りするぞ!」

北斎のひと声でそれは始まる。わずかな家財を荷造りし、お栄も為一もそれに従う他ない。

この度の屋移りにはひとつの原因があった。それは江戸で人気が出始めていた「東海道五十三次」なる浮世絵の出現である。

北斎は自分の年齢の半分にも満たない歌川広重の人気に少なからず焦りを感じていたのだ。それは嫉妬というようなものではなく、絵師としての意気地でもあった。

「なに?広重…?わしの敵ではないわ!」

と豪語しながらも、北斎はもっと新しいものを、もっと売れるものを、と焦った。

冨嶽三十六景に遅れる事一年、歌川広重が発表した「東海道五十三次」は北斎を上回る人気を博していた。まだ若い広重の脚で描いた名所絵は、旅に憧れる江戸っ子の心に触れ、大当たりを取ったのだ。北斎は七十二歳、広重三十五歳の時である。

「東海道、あれはすごいね、あんな線はなかなか出せやしないよ、あの色もだけどさ」

北斎の気持ちを知らぬかのように、お栄は畳みかける。それが北斎をより苛立たせる。

「屋移りするぞ!」苛立ちの頂点に達すると、北斎はそう叫んだ。


屋移りが一段落すると、北斎は喜寿を控えているとは思えないほど精力的に絵筆を取った。

お栄も為一もその迫力にあきれながら圧倒されるしかなかった。


「それにしても画狂老とは面白い事を…師匠の頭の中はどうなっているのでしょう」

為一は礼儀正しい男である。北斎の家にいてその劣悪な生活の中でも平常心で画を描ける人間は自分とこの為一だけであろう。この男の物言いを聞く度にお栄は確信した。

「おおい!お前!ここを持っておれ、おおい!」

「ちぇっ!おおい、おおいとうるさいおやじだ。いちいちあたしの手を煩わすんじゃないよ」

為一もまたこういった親子のやりとりを聞くにつけ、世間離れしたこの空間に身を置く事を決して悪しく考えていないように思える。お栄にはそれが嬉しかった。


「お前、東海道五十三次をどう見る」

北斎にこう聞かれた為一は、はたと考えた。どう見るかと言われるとどう答えて良いかとまどってしまう。広重の画は、まさに画である。色使い、構図、すべてにおいて完璧に描かれていると思う。北斎の画と比べても遜色のないものに出来上がっていると思うのだ。だが、それをそのまま北斎に答えるのははばかれた。北斎の冨嶽三十六景の斬新さには為一も度肝を抜かれた一人で、その構図の確かさ、線の細かさ、内にある遊び心、それらが上手く調和しあい、圧倒的な迫力をもって迫ってくる。その迫力が広重には欠けているようにも思う。

「東海道五十三次は確かな目を持って描かれたものと思います。ただ、冨嶽三十六景の迫力には少なからず及ばないかと…」

北斎はぎらりとした目を為一に向けた。

「迫力?」

「はい、師匠の画の中に隠れている何かが私を圧倒するのです。その迫力が広重殿のそれには見受けられません」

「ふん!知った風な事を」

北斎はくちびるの端をゆがめて、また絵筆を取った。横でお栄が眩しそうに目を細めて二人を見ている。四十になるお栄の安らぎはこんなひと時にあったのかもわからない。為一はお栄にとってもまた特別な存在であった。


 北斎は風景画「諸国瀧廻り」八図「諸国名橋奇覧」十一図を発表するが、どちらも東海道五十三次の人気を制する事はできなかった。

風景画への意気込みは薄れてはいなかったが、北斎はその苛立ちを花鳥画にぶつけるようになっていた。

「為一さん、どうなんだろう。広重はおやじさんの相手ではないような気がするが、おやじさんはああいう性分だ。売れてなんぼのこの稼業と、少し焦り過ぎちゃいないかね」

北斎の描いた「芥子の花」は強風にさらされながらも、芥子が見せる激しい程活き活きとした様が観る者を圧倒した。するとすぐさま広重は「月に雁」を描き圧倒的な人気を博す。直観的創造の北斎の画風と写実力としっとりとした趣の広重の画、江戸の人々が求める美が広重の画風にはあった。北斎を絶賛しながらも人々が買い求めたのは穏やかで美しい広重の画の方であった。


「屋移りするぞ!」


北斎は自分自身を捨て去るようにまたもや引越しをした。お栄も為一も当然の事ながらそれに従う。北斎は七十四歳になっていた。屋移りする事で北斎の苛立ちは治まったのか、多少は穏やかな暮しぶりに戻り、お栄などは「ちっ!おやじから苛立ちをとったんじゃ何ものこらねえよ!」とぼやきながらも、好物の大福や団子を頻繁に買い求め北斎の機嫌の良さを喜んだ。


 だがこの穏やかな日常は、北斎が更なる目的を見つけ、それに向かって走り出そうとする準備が整った証であった。北斎は「冨嶽三十六景」に更なる構想を広げ、面白い工夫を凝らし、新しい富士を描こうと考えていたのだ。それは広重との競い合いではない、自らとの競い合いであった。


「あのお年で、寝食を忘れて絵筆を離されないでは、お身体にも障るのではないでしょうか」

為一はお栄だけでなく、北斎の兄弟子にも相談を持ち掛けた。お栄は「なあに、いつもの事さね、放っておくがいいさ」と気にもかけない様子で、自分の作画に打ち込んでいる。この親子の有り方はわかっているはずだが、北斎は高齢ではないか。娘ならもう少し労わる気持ちがあっても良いではないか。

「言うて聞くような師匠だと思うか?お栄さんの言うとおりだよ」

兄弟子はこれもまた熱心に筆を運びながら言ってのけた。誰もが北斎の気質を良くのみ込んでいた。


この時北斎が取り組んでいたのは挿絵である。全三篇の絵本が完成し、「富嶽百景」として江戸の人々の目に突き付けられたのは北斎七十六歳の時であった。その絵心、遊び心、「冨嶽三十六景」の構図そのままに更に構想を重ねたその画に人々は驚愕し、絶賛した。


広重人気はまだまだ続いていたが、北斎にとってはこれで充分であった。

「おやじさんらしいやね、こんな挿絵に心血をそそぐなんざ、あたしには考えられないよ」

お栄は口悪く言ったが、その目が驚きと喜びに満ちている事を為一は知っている。その絵一枚一枚が胸に迫ってきて、為一も思わず絵筆を取った。寝食を忘れて絵筆を取り続ける北斎とお栄を描いたものである。お栄は笑った。

「お前ね、こんなものをよそで見せるんじゃないよ、何だい、このあたしのふてぶてしさはさ」

為一も笑った。皮肉にも彼の絵画の中で世に出たものは無く、唯一この時の図が残されているにすぎない。お栄の淡い恋心もこの絵師という世界の中では成就しなかった事だろう。


 北斎はその後も数々の名作を残し、お栄もまた葛飾応為として多くの画を残している。

北斎は九十で往生するまでに実に九十回を超える引越しをしたが、それは全て現状との決別、自分と戦う為ではなかったろうか。


応為はその才能が故に父北斎の影的存在であっただろう。だが、親子で描いた一つの作品がある。

「唐獅子図」

北斎八十三歳の作である。真ん中に堂々とした北斎の獅子、周りに色鮮やかな応為の牡丹が配されて見応えのある作品である。

「おやじ!ここはこうでないとだめだよ!」

「何を言う!この色以外は使わせん!馬鹿者が!」

一つの芸術に向かい合う父親と娘。その姿からは他人の目にどのように映ろうとも、固く結ばれた絆を感じずにはいられない。

五年後の「富士越龍図」を絶筆として北斎は九十歳の生涯を終えた。富士から立ち昇って行く龍の雄姿はまさに北斎の姿そのものであった。


広重は写実を守り、その後もその名声は衰える事がなかった。北斎と広重の画風の決定的な違いはその気質の違いであっただろう。激しい北斎と穏やかな広重。「冨嶽三十六景」の神奈川沖浪裏は激しい波頭がその画のすべてである。広重は本心で言えば、この波のような激しさを画にしたかったのではないだろうか。「冨嶽三十六景」から三十年、広重没後一年に刊行された「富士三十六景」では密かに広重が北斎を意識して描いたであろう、「駿河薩タ之海上」にその思いが現れている。東海道五十三次では表せなかった波頭である。


そして北斎没後、海外でも北斎の評価が高まり、ドビュッシー作曲の「海」が北斎の「神奈川沖浪裏」をイメージされている事は広く知られている。

この北斎の波はロダンに影響を与えたとも言う。遠い空の上、北斎はしたり顔でそれらを聞いた事だろう。


 人魂で行く気散じや夏野原  画狂老


辞世の句そのままに、夏の野原をわははと高笑いし絵筆を携えながら、今でも北斎は歩き続けているのかもわからない。   了


 
 
 

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