養生所覚書~花咲く頃~上
- sakae23
- 7月4日
- 読了時間: 25分
利重の胸を塞がせていたのは心ない人々の口さがない噂であった。 だが、本当の胸の内を知るのは当の利重のみである。何と思われてもかまわない、噂通りであると叫びたい気分に襲われる。乱心だと言われればその方が気が楽なようにも思う。
利重は小さくため息をつき、障子を閉めた。このまま誰にも会わず生涯を終えたい。 自分の出自を心底うらめしく思う。
「輿入れじゃと、私に……」利重は苦々しくつぶやいた。
私はいったい何の為に生まれてきた?父上の跡を継ぐなどもっての外、その力の無い事は充分わかっている。利成にはその資質がすべて備わっている。
私などこのまま消えてしまうのが一番良いのだ。それを妻を娶って生き延びよと父上は言う。これ以上私をみなの笑いものにするおつもりか。
幼少の頃から利重はいつも利成と比べられて育った。もともと虚弱な性質の上に、言語に些少難のある利重にひきかえ、弟利成には文武すべてにおいて将軍としての資質が備わっている。利重を見る父の目は嘲りと落胆に満ちていた。
利重は徐々に自分の殻に閉じこもるようになり、ごく近しく身の回りの世話をしている乳母のさとと側近の狩野重蔵以外とは言葉を交わす事さえほとんどない有様だった。
父の利家にも母の彰子にも当然心を開かない。 ひと頃は怒りにまかせて従わせようとしていた利家も、腫物に触るように接していた彰子もすっかり諦め、利重の元へ立ち寄る事さえなくなっていた。
自分を諌めるものも、自分を認めるものもいなくなった。利重は孤独であった。
四方鞆哉と酒を傾けながら、榊宋州は今頭を悩ませている事について話していた。
「さるお方の事で、どうしたものかと悩んでおる」
宋州の悩みは将軍の嫡男の病にあった。名を出す事は出来ないが、幼馴染の鞆哉ならそれを解決してくれはすまいか。鞆哉を誘ったのはそう考えての事である。
「そのお方は口を利かれないのだ、まったく声を発せられぬ」
「こちらの言う事は理解しておるのか?幼少の頃からなのか? 」
「いや、特定の人には話されるらしいが、とにかく、何を伺ってもただだまっておられるので、ほとほと困っておる。決して頭に問題があるわけではないらしい。お見かけしたところ聡明そうなお顔立ちで、少し背丈がお小さいが、様子もご立派に見受けられる」
「何か不満でもあられるのか?」
「不満ということでもないが、父君が言われるにはそのお方には弟君がおられる。これがまたすべてにおいてそのお方よりも優れておられるという。その上、この度弟君の方に縁談が決まられたというのだ。ものには順序というものがあろう。そこで殿……あ、いや父君はそのお方の嫁御をあちらこちらに手を打って探させ、ある息女を宛がわせることにされたのだ。それを知ったとたんにそのお方は、また心あらずのだんまりになられてしもうた」
御典医として将軍家に出入りを許されている宋州は、嫡男利重公の事で直々に相談を受けたのだ。
利重はもともと表に出る事がほとんどなく、実際に近しい人以外その姿さえ見ない事などから、さまざまな憶測を呼び、しゃべれない、考える事もできない、生ける屍のような人間だ、とか知能が低く跡取りなどはとうてい無理である、などと人々は陰でいろいろと噂しあった。その容貌も怪奇なものであるかのごとく言う人まで出てきたのだ。
利重は今年二十一歳になる。父の利家は息子の心を図りかねていた。ほとんど言葉を交わす事なく、一日中書物を読んでいるか何か絵筆を持ち描いている。弟の利成は幼少の頃から利発で、文武に長けているというのに……正直なところ自分の後継者とするなら、利成だと思う。口さがない民衆の噂が広まっている利重では、国を纏めるのは難しいだろう。
今年十八歳の利成には隣国からの輿入れが決まりつつある。その前に利重に妻を娶らせなければならない。そこで、手を尽くして将軍家の妻として相応しい息女を探し出した。
遠く安芸の国浅野家の息女である佳子は利重より一歳年上の二十二歳。少し薹が経っているが利重には過ぎた縁談である。
ところが、輿入れの話しを切り出したとたん、利重はだんまりの貝になってしまったのだ。利家はすっかり手を焼いた末、出入りの医師、宋州に利重を託す事にしたのだ。
「わかっておるのはこれは身体の病ではないということ、身体の病なら手のうちようもあろうが心が病んでおられるのでは…四方、おぬしは心の臓を得意としておるのじゃろう。何とかならんか」
「おいおい、心と心の臓を一緒にするか」
鞆哉は苦笑いを返したが、その若者への関心が深まっていくのを感じていた。 実のところその若者が誰であるのか、宋州は名前を伏せているが、鞆哉にはわかっていた。
それは人々の口からさまざまな憶測となって鞆哉の耳にまで届いている将軍の嫡男のことであろう。
鞆哉はそれを敢えて口にはせずに宋州の話しに耳を傾けていたが、ふと口に持って行きかけた猪口の手を止め、言った。
「嫁御がお気に召さないということか? 」
「いや……そうではあるまい。そのお方は自分そのものを捨ててしまわれておるのだろう。自分などいなくなるべきだ。そう考えておられるように見受けられる」
鞆哉は思わず宋州を見た。将軍家に生まれながら、そのような人間がいるのだろうか、恵まれ過ぎているからこその我儘か……世の中には明日の暮しのたたぬ者もいる。
実際に鞆哉はそういった人々と多く係わってきた。貧しくても恵まれていても、自分を捨ててしまいたい、そういう思いは湧き出てくるものであろう。それを否定はできない。
自分などいなくなるべき……鞆哉もまた過去にそう思ったことがあったのだ。 鞆哉は九千石旗本の次男であった。兄の伊織は、幼少の頃から頑強ではなかったが優しく広い心を持ち、嫡男としての資質を兼ね備えた人であった。
鞆哉もまた、文武に長ける男子として育ち、宮前の家は安泰だと寄合旗本の連中は噂しあっていた。 ところが、父の孝之進が病に倒れた頃から、伊織と鞆哉の上に不穏な風が吹き始めたのだ。
宮前の家に父の実子であると、孝之輔という男が現れた。その当時伊織は十七、鞆哉は元服したばかりの十五歳であった。 孝之輔は二十歳で、聞けば父孝之進が母との婚姻前に成した子であるという。それからのお家騒動はまさに鞆哉にとっては地獄図のようなものであった。
結局孝之輔の母と名乗る女は宮前の家に居座り、孝之進の臨終を看取った。 その女と戦えるだけの強さを持っていなかった鞆哉たちの母親は、ある日縊死して果てた。
もともと丈夫でなかった伊織は心を病み、母の後を追うように自刃したのだ。 宮前の家は孝之輔が家督を継ぎ、その母親の昌世はそのまま宮前に留まった。
鞆哉にしてみればこの親子に家を乗っ取られたようなものである。 家臣たちは初めの内こそ、この親子に敵意のある目を向けていたが、正式に家督を継いだ孝之輔に対して、逆らえるものはいなかった。
ひとり残った鞆哉にその家での居場所はなくなったのだ。 消えてしまいたい。自分も両親と兄の後を追おう。それしか頭の中にはなかった。夜の川を見ていると母の優しい顔が水面に浮かんだ。
自分を呼んでいる声がする。兄の声だ。鞆哉は冬の川へ飛び込んだ。
宋州は鞆哉に酒を注ぎながら、
「お家とは、そういうものだ」という。
「うん……?お家?」
「そのお方は、弟君こそ家督相続に相応しいと考えておられるのだろう。弟君は文武に長けておられ、お父君の期待はどうしても……な」
宋州が自分の胸の中を覗いた訳ではあるまい、と鞆哉は思ったが、その嫡男の気持ちはわかる。嫡男であればその思いは尚更であろう。
「まずはそのお方を心の闇から救ってさしあげることだ。治療はそれからだな」
「心の闇?」
「そのお方は嫡男であることを、大きな負担に思われているのではないか?そこから救い出して差し上げることだ」
「しかし四方、ことはそんなに簡単ではないのだ。そのお家は……大きな声では言えぬが……」
「よいよい、わかっておる。その嫡男にあたいするのはお一人しかおられん」
なんだ、わかっておったのか、と宋州はため息をついた。 宋州はいくつになっても純粋な男である。二年前に妻を娶り女児がひとりいるが、鞆哉には同い年のこの男がまるで弟のように思えるのだ。
十一年前のあの日、自分をあの死の淵から救い上げてくれたのは、他ならぬこの宋州であった。 鞆哉と宋州は同じ学問所に通う幼馴染みだった。
鞆哉の母と宋州の母は同じ年の息子を持つ母親同士として親しく行き来していた為、その後の三年間鞆哉は宋州の家で暮らし、また医師となる基礎を勉学できたのも、宋州の家族の力添えのおかげである。
宋州一家にはどれだけ感謝してもしきれない、鞆哉にとっては宋州の家族は自分自身の家族でもあると思えるのだ。
「そのお方を外に連れ出せないか?身分を隠してでもよい。いくらか寒さも薄らいできておる。広い自然の中にお連れできぬだろうか」 「う……む、何しろ言葉を発してもらえぬほどだからな。連れ出せたとして、いかがするのだ」
「亮之進や雪乃殿に力を貸してもらうのはどうだろうか?何か手だてがあるはずだ。きっと」
薬園はちょうど草萌えの時期で、薬園を散策すると心が豊かになるように思える。養生所の梅も満開だ。今が盛りの菜の花の色は元気をくれる。 そして何といっても雪乃の心配りは、どんな人間の頑な心にもやわらかな風を吹き込んでくれそうな気がするのだ。
「難しいかもしれんが、一度狩野様に相談してみよう。何か良い策があるとよいのだが、お前は亮之進殿たちに良い知恵がないか尋ねてみてくれ」
わかった、と頷いて鞆哉は飲みかけていた酒を飲み干した。
鞆哉は医師の伊佐玄琢と共に小石川養生所での診療を行っている。小石川養生所には親しくしている医師の初瀬亮之進や患者の看護にあたっている雪乃がいる。 彼らなら、心の闇をかかえるその嫡男を救う手だてを見つけてくれるかもわからない。
鞆哉は顔も知らないこの嫡男をいつしか自分と重ねていた。きっとその闇から救う手だてが何かある。漠然としてはいるが、そんな確信さえも湧いてきていた。
「おぬしに相談して、何か胸のつかえが下りたようだ」
宋州は心底安堵したように言う。
「いや、まだまだこれからが大変だぞ。まあ焦らず少しずつそのお方の胸の澱を取り除いて差し上げるのだ。すべてはそこからだな」
鞆哉は宋州に酒を注ぎながら、そう答える。それは自分に対しての言葉でもあった。 心の病は目に見える病とはあきらかに違う。どれだけ時間を費やされるか、それさえも見当がつかない。
ただ、手の施しようのないたちの悪い病と違い、ふとしたことから快方に向かうこともよくあるのだ。その糸口が養生所にはあるような気がする。 明日にでも二人に相談してみよう、鞆哉は二人の温和な顔を思い浮かべた。
翌日鞆哉は養生所に行き、亮之進と雪乃にかの嫡男のことを話した。亮之進も雪乃もじっと話に耳を傾けていたが、その嫡男を誘い出すという鞆哉の案に顔を見合わせた。
「どちらにお連れするのですか?」
雪乃がまず口を開く。
「いや……まだ詳しい策を考えてはいないのです。ただ、その方の心の闇はご自身のお家にあるのではと考えます。源がお家でのお立場にあるのなら、その場所から一旦離れられるべきなのでは、と思ったまでで、何処にお連れすれば一番良いのか……」
鞆哉は少し口ごもりながらそう言ったが、その実お連れする先はこの養生所を除き他にないことを確信していたのだ。
「おぬし、もう決めているのであろう」
亮之進が助け舟を出すようにつぶやく。
「あ……いや、そういうわけでは……」
雪乃は二人の顔を見比べながら、小さく笑った。 鞆哉は、出来れば養生所でしばらくゆっくりと静養してもらいたい旨を、まずは雪乃に向けて話し、亮之進に向き直った。
「だが、そう首尾よくいくのであろうか、かりにも将軍家の嫡男だぞ。事は簡単ではないであろう?」
「うむ……それはそれ、御父君にも手の付けられぬ悩み事ゆえ、意外にすんなりと行くのではないかと。取り敢えず側用人の狩野殿に話しをしてみると宋州はいうのだが、どうだろうか」
「さようでございますね、それならばそのお答えを待って、動きましょう。あまり構えずに、そのお方が気持ちよく心を休ませることができないか、まずはそこからですね」
雪乃がきっぱりと言い、その場を立った。 雪乃のこういった潔さが鞆哉には好ましい。あれこれ考えていても仕方がない。利重の心を動かすことが第一の問題だ。それが決まればこの雪乃にすべてを任せても良い。
そんな気持ちになるから不思議である。 亮之進はまだ深刻に考え込んでいる。
「しかし、どうしてそのようなだんまりになられるのであろう。弟君との確執でもあるのだろうか。私ならやれやれ肩の荷を降ろせたと思うところだがな」
武士を嫌って医者の道に進んだ亮之進には、お家というものに翻弄される利重の気持ちがよくわかる。だが他人と口をきかず、だんまりを決め込んでも何の解決にもならないと、そこの所が納得いかないのだ。
「もともとそういう性質のあるお方のようだ。そこへ知っての通り、あれこれ噂の対象になってしまわれた。それでますます自分の殻に閉じこもってしまわれたのだろう。弟君との確執などはないのでは、と宋州は言っておるが、本当のところはどうなのか……」
雪乃が夕餉の支度が整ったことを知らせ、ふたりの会話は途切れた。
「お二人とも、一本付けておりますから、お話しはそれからになさいませ。お腹が空いていては良い案も浮かびませんよ」
雪乃は笑いながら言う。
「姉上のようだな」 鞆哉は亮之進に小さく耳打ちする。亮之進の雪乃に対する思いを知っているだけに複雑な気持ちだが、亮之進はそれには答えずに雪乃に従った。
宋州は狩野重蔵に見(まみ)えていた。
「利重様を連れ出す?いったい何処へ」
重蔵は驚いて宋州を見た。宋州はとにかく今の状況から利重を遠ざけたいこと、違った環境の中に置いて、心の解れるのを待ちたいという旨を話した。
「しかし……若殿はあのようなお方じゃ、それはちと難しいのではござらぬか」
「難しいのは重々承知しております。ただ、このままでは利重様のお心は晴れぬままでございます。人々がいろいろ噂していることも利重様の耳に届いておりましょう。決してそのような方ではないことを、民衆にも知らしめてやりたいのです。それには利重様自体が今の状況から抜け出さねばなりません。どうかお力をお貸しください」
重蔵は考え込んでいたが、ふと顔を上げて宋州に言った。
「若殿は、心根のお優しい方なのじゃ。自分さえこの世にいなければ利成様は何の迷いもなく殿の跡目となられるのに、と考えておられる。お二人は小さいころは仲の良い御兄弟であった……」
「仲の良い御兄弟……」
「じゃが、今では利成様の側近の者たちに不穏な動きがある。民衆にあらぬことをふれ回ったのもその者たちではないかと考えておる。利重様は弟君が跡目を継ぐことに何の異存もお持ちではないのに……ただ嫡男だというだけで利成様との関係さえも不確かなものになってしまった、それもあって利重様の胸は塞いでしまわれたのじゃろう。重ねて宛がわれたようなこの度の縁談……弟君の婚姻にも自分という人間が妨げになっていることに心を痛められたのではないかと私は思っておるのじゃ」
宋州はあらためて利重を何とかその立場から救い出したい思いにかられた。自分の生まれが、生まれた順序の違いが、思いのほかの重圧となって利重を押しつぶそうとする。
幼い頃は何のわだかまりもなく一緒に過ごしたであろう兄弟が、見えない大きな壁に引き裂かれ、しかもお家騒動の的にさえなっているのだ。武士の家柄ではない自分にも、その辛さは計り知ることができる。
「なにとぞお知恵を……利重様をお連れする何か良い方法がありませぬか。利重様が心を動かされるものはどのようなものなのか、お教えいただきたい」
「さと殿に相談してみよう。さと殿なら若殿のことを良く理解なさっておる。若殿を我が子同然にお育てになったのじゃから」
重蔵はすぐにさとを呼び、事の成り行きを話した。 さとは直参旗本河野是定の妻女であったが、実子を死産した後、利重の乳母として将軍家に召し抱えられていた。是定が早くに没した為、そのまま利重の世話係として同じ屋敷内に寝食している。四十歳半ばだと思われるが、落ち着いた雰囲気の美しさを留めた人だ。
「利重様を……さようでございますか……」
さとは少し微笑んで宋州をみた。
「利重様は思われているような頑なな方ではないのですよ。今は言葉を失っておられますが、私には利重さまのお気持ちは充分過ぎるほど伝わってくるのです。ご自分がいなくなればすべて丸く納まるのにと考えておいでなのでしょう。宋州殿、利重様をどこへお連れなさいますか」
「すべてはお連れ出来ると決まってからでございますが、小石川養生所の四方鞆哉、初瀬亮之進が良い案を出してくれるのではと考えております。南町奉行に力添えをお願いしたいとも…」
「お奉行に?」
「小石川養生所にはお奉行とも近しく交え、信望あつい者も多いのです。みな若殿のお気持ちを一番に考えてくれる人たちであることは事実です。彼らに任せればきっと良い結果が得られましょう」
「養生所に若殿の居場所がありましょうか?」
「それは…今よりは御不自由をおかけするやもわかりませぬが、居心地は私が保証いたします」
さとはまた少し笑って頷いた。
「わかりました。私から利重様にお話ししてみましょう。養生所の菜園は今は美しいことでしょうね。梅が盛りではありませぬか?」
宋州は驚いてさとに向き直った。さとが養生所のことを熟知していることに驚いたのだ。
「はい、養生所の庭の梅は今が盛りです。菜園、薬園も様々な花で溢れております。さと様は養生所をご存知なのですか」
「私とて年中屋敷に詰めているわけではありませんよ。良い季節には少し足を延ばしてみたくもなります。薬園はもとお城の薬園だったとのこと…どんな様子か興味があります」
さとはまっすぐに宋州をみて言う。養生所の雪乃殿とどこか似た人だ、と宋州は思った。
「利重様、さとは養生所の薬園や菜園が好きでございますよ。もとは城の薬園であったものを移したというのもご縁でございましょう。きっと心も和らぐことと思っております」
利重は相変わらず何も言わずに書物に目を落としている。宋州の申し出を受けて、さとは利重に養生所での静養を勧めたのだ。
「すぐにとは申しません。それに……養生所には猫が居るようでございますよ。さとが前を通りましたおりには白い猫が子猫を連れておりました。その可愛いことといったら、利重様にもお見せしたいほどでございました」
利重はまったく知らぬ顔を決め込んでいるが、さとは構わず続ける。
「もう少ししたら桜も咲き始めましょう。殿様がお植えになった桜の木が養生所の近くには並んでいて、それはもう見事なものでございましょう」
さとは茶を淹れて利重の前にそっと置き、部屋を出て行った。利重は書物から目を離して障子を少し開けた。 目の前の中庭ではさとが好む椿が見事に花を付けている。小さな庭ではあるが、それでもさとの丹精で四季折々に美しい花が咲く。やっと冬が終わったのだな……利重は深く大きく息を吐いた。さとは自分のことをすべて見抜いている。
「猫じゃと……いつまでも子ども扱いか……」
そう言い捨てながらも利重の心は少し動いていた。幼い頃さとに連れられて薬園を訪れたことがあった。養生所があったかどうかは覚えていないが、さとにお城の薬園だと教えられたことは覚えている。
白い花が咲いていて、派手さはないが楚々としたその風情が今でも目に残っている。
「殿様がお奨めになった、御種人参の花でございますよ。その根が人々の病を癒してくれるのです。もう少ししたらこの花は可愛い赤い実になりますよ」
さとは何でも知っていた。さまざまな花の名前、木々の名前、すべてをさとに教わった。さとは母以上に利重にとっては母親そのものであった。
私とていつまでもこのままでいるのが良いとは思わぬ、さとが勧めるのならこの部屋を出てみるのも良いのかもしれぬ。 さとは椿の花が美しいまま散ることを潔いと好む。庭ではその散り椿が美しい風情を見せている。
「武士の中には椿を忌み嫌う人もおりますが、さとは美しいまま花を落とすその潔さが好きでございますよ。花は落ちてもその後もまだまだ人の目を愉しませてくれるのですもの」
潔さとはどういうことだ……自分の任は何なのだ……利重の脳裏に利成の顔が浮かんだ。成人してからは直接会うことも無くなった弟である。
利重との技量の差が現れるにつれ、利成が利重のもとを訪れることは少なくなっていったのだ。
利成の乳母であるたまきは利成の学問係としても長けており、読み書きのみではなく、武将としての心得なども教えこんだ。利成はいつしか兄をうとましく思うようになっていったことだろう。
そういった利成の気持ちの変化はまた利重の耳にも届いていた。 利成は武将になるべき素質と実力をじゅうぶんに兼ね備えている。その為の努力も惜しまず重ねたことだろう。
だが……嫡男ではない、それだけで何故自分が父の跡を継げないのか、利成の苛立ちが利重の胸をえぐる。
自分にできることは、跡継ぎとしての資質の無さを世に知らしめることだけでは無いのか。自分には将軍として民を治める力はない。それを解っているのは自分自身である。利成にもそう伝えたい気持ちが強い。
自分が養生所で静養することは、すぐさま利成の耳にはいるであろう。利重乱心と民たちは噂するやも知れぬ。それならこれは利成が父上の跡を継ぐことへの良いきっかけとなるではないか。利重は庭からそらした目を書物に落とした。
養生所では利重受け入れの準備が始まっている。榊宋州を伴い用人狩野重蔵が直々に養生所を訪れたのは梅の花も散り、桜の蕾も膨らんだころのことである。
「榊宋州殿からの申し出で、若殿にこちらで静養頂きたいと考えております。宋州殿はこれが若殿のお心を解す良い手だてだと申されます。ご承知いただけましょうか」
亮之進と雪乃が揃って重蔵に向き合った。
「若殿はご承諾下さったのでしょうか」
「相変わらずお言葉は発せられませんが、乳母のさと殿に頷かれた由、さっそく私がお願いに参上したという訳でござる」
「若殿にご満足いただけるかどうか……ここにありますのは、ごく庶民の生活でございます。ただ、自然の中で日々を送ることで、お屋敷暮らしとはまた違ったお気持ちが芽生えることは期待できましょう」
雪乃は重蔵を真っ直ぐに見て微笑えむ。重蔵は安堵の目で頷いた。
「して、こちらにはいつ……御付の方は……」
亮之進はいくぶん緊張した面持ちで宋州に向けて聞いた。宋州は準備が整い次第お迎えに上がること、御付は無しで若殿ひとりでおいで頂くことを話した。
「かしこまりました。準備といっても特別なことは何もございません。私どもは出来るだけありのままの暮しに若殿をお迎えするつもりでございます。もうまもなく桜が咲き始めましょう。良い季節です。どうぞお早めにおいで頂きますようお待ちしております」
雪乃の気負いのない温もりに送られて、養生所を後にした重蔵はこれなら若殿のお心も少しは晴れるやもしれん、とひとりごちた。
重蔵来訪の翌日、亮之進、鞆哉、宋州の三人は亮之進の部屋で利重のことについて話し合っていた。
「これで、一歩前に進んだという訳だが、問題はこれからだな。若殿にどう接するかだ」
亮之進は少なからず落ち着かない。まだ言葉を発しないという利重にどう接すれば良いのか考えてしまうのだ。雪乃は何とかなりますよと言うが、どうにも心配なのだ。
「若殿は毎日書物を読んでおられることが多いと聞きます。書物は屋敷よりお持ちになるはずだから、そう気に病むことはないでしょう」
「宋州殿は寝食を共になさるわけではないのでそう言われるが、毎日顔を突き合わせる私の身にもなられよ、何を話せばよいのかとんとわからん」
「あはは、また亮之進の心配症か……雪乃殿にお任せすればよいではないか。おぬしには日々の仕事があるであろう。雪乃殿ならきっと上手くやって下さる」
鞆哉が亮之進にむかって笑いながらいう。 雪乃はこの三人の医師よりも七歳年上である。元は武家の出であった雪乃は実父の失態の為、婚家を追われ一時廓に身を落としていたが、小川笙船に助けられ養生所で病人の看護にあたっている。どのような事にも動じることなく、亮之進たちにとっては頼りにできる姉のような存在である。
「それはそうではあるが……ここには入所の病人もいる。何か粗相でもあっては大変なことになるではないか。離れで若殿の部屋として用意できるのは、この部屋の隣の客間だけだぞ。いつも隣に若殿がおられるかと思うと気詰まりでならん」
「初瀬殿、ご心配はごもっともですが、まあそのようにおっしゃらずに、よろしくお願いいたしまする」
とにかくお受けするとなった以上、利重の気持ちを少しでも解すことが必要である。どういう治療にあたれば良いのか、三人は膝を突き合わせて時間を忘れ話し合った。
屋敷を離れるのは初めてのことだ。いつも傍らにはさとがおり、何かと世話を焼いてくれた。武道の心得や武将としての在り方を教えてくれたのは重蔵であった。
利重が養生所での静養を受けることを承諾したのは、一種の逃げであった。人知れず消えることが無理なら、屋敷と離れた所に身を置くことで、今の立場から逃れたいと考えたにすぎない。それでもさとや重蔵のことを考えると、少なからず胸が痛んだ。永久の別れではないが、もう自分は嫡男としてこの屋敷に戻ることはあるまい。
重蔵はそれをどのような思いで受け止めるのだろう。さとはさぞ悲しむことだろう。だが、そうすることが父上にとっても利成にとっても良いことなのだと思いこむことで、利重はさとや重蔵への思いを振り払った。
屋敷を出る前日、利重は父利家の訪問を受けた。
「養生所での生活はどのようなものであろうか……嫌なら無理に行く必要はないのだぞ。利重、何故話さぬ。わしの事がそれ程に嫌なのか。お前の意に染まぬのなら輿入れの話しは無しにしよう。何とか言わぬか、利重」
利重は一瞬驚いた目で父を見た。そして何も言わずに静かに頭を下げた。
「さと、利重は何故に口をきかぬのじゃろう。こちらのいう事はわかっておるようじゃが」
「お優しい方なのでございますよ、利重様は。殿様のお気持ちは充分わかっておられます。この度のご静養は利重様にとって必ず良い手だてとなるはずです。あまりご心配なさいませんように」
「わしは、利重を疎ましく思ってはおらんのじゃ。榊に頼んではみたもののそれがどうも気にはなる。利成は確かに文武にかけて利重に勝っておる。じゃが、人の上に立つことはそれだけではない……人の在り方は甲乙つけがたいものじゃな」
さとは微笑んで頷きながら利家を見た。利家の顔は将軍としてではなく父親としての温和さに満ちていた。
千川の桜が満開になった日、利重はさとを伴い養生所を訪れた。心地よい春の風が養生所の薬園や菜園のまだ若い苗たちを靡かせている。利重の目が心なしか穏やかなのがさとには嬉しく思える。重蔵は当初こそ協力的だったが、いざ館を出ると決まった時から利重の静養を憂いていた。利成殿に知られれば思うつぼではないか、今はこのことを誰にも知られないようにしなくては……そういう重蔵にさとは言った。
「狩野様、そのように構えられる必要はございませんよ。若殿はお心を休ませるために養生所で過ごされるだけのことです。二度とこちらにお戻りにならない訳ではございません。大きな気持ちでお待ちしようではありませんか。きっと良い方向に向かわれます」
さとにきっぱりといわれると、何となくそういう気がしてくるから不思議だ。重蔵は目立たぬように養生所に向かう二人を見送った。
養生所では利重を迎える準備がほぼ整っていた。利重の部屋になる予定の客間は念入りに掃除されていた。日に干した布団を取入れて雪乃は空を見上げた。
良いお天気でよかった、と口に出すと、たきが「そうですね」と応える。ことがあると養生所の手伝いに訪れるたきは雪乃を姉のように慕っている。
「たきさん、今夜は少し御馳走を用意しようと思っているの。お手伝いをお願いできるかしら」
「もちろん!若殿様に粗末なものは出せませんものねぇ」
「あら、御馳走は今夜だけですよ。明日からは粗末な食事に慣れていただかなくては」
雪乃は子どものような顔で笑い、庭の椿を一輪切った。
椿は備前の花挿しに良く似合う。たとえ客間であってもさほど広くもなく、贅を凝らしている訳でもない、設えた床の間も質素なものである。その床の間に紅椿が良く似合うだろう。雪乃はそう考えていた。
「そうそう、たきさんに会わせたい人がいるの、ちょっと待ってね」
雪乃は台所の方へ行き、ひとりの女中を伴ってきた。
「こちらは若様のお世話をお願いする方なの。私は患者さんのお世話もあるし、若様にずっとおつきする訳にはいかないでしょ。お奉行様に相談して、適任の娘さんを紹介していただいたの」
「まあ、若殿さまの……私はたき、時々雪乃さんのお手伝いをしているの。よろしくね」 「よしと申します。たきさんのことは雪乃様からお聞きしております。よろしくお願いいたします」
よしは橙色の小紋を品よく着た娘だった。奉行の紹介とあれば安心して利重の身の周りの世話を任せられる娘であろうと、亮之進も鞆哉もよしを世話係にという雪乃の提案を受け入れたのだ。
その日の午後利重は養生所へ到着した。榊宋州、四方鞆哉、初瀬亮之進、雪乃とよしが迎い入れ、離れの客間へ案内した。
「利重様、よくおいで下さいました。このようなむさ苦しい所ではございますが、どうぞゆるりとお寛ぎいただきますように、そして何なりとお申し付け下され」
亮之進が前に出て頭を下げる。利重は何も言わないが、少し体を前に傾けたように見えた。
「皆様どうぞよろしくお願い申し上げます。利重様、さとはこれでお暇いたします。どうか穏やかな日々をお送りいただけますように……」
「さと殿、これよりはこちらのよし殿に若様のお身の周りのことをお願いするつもりでございます。もちろん、私達も全力でお心が癒えますようにお仕え申し上げます。なにとぞご安心の程を、狩野殿にもよしなにお伝えいただきますようよろしくお願いいたします」
亮之進がかしこまってさとに頭を下げるのを受け、雪乃が静かに微笑んでいう。
「さと様、どうぞ今夜だけでもご一緒にお食事をなさって下さいませ。たいしたおもてなしもできませぬが、皆も喜びます」
「ご親切にありがとうございます。でも、それでは心が残るばかりでございます。早々に立ち去る方が利重様にとってもきっとよいのだと思いますよ。よし殿、後のこと、何とぞよろしくお願い申しあげます」
さとはまだ日の残る内に養生所を後にした。
利重の荷物は昨日の内に養生所へ届けられ、雪乃たちによって、きちんと整理されている。気に入っている書物も館から運ばれた書棚に並んでいた。
客間の前の長い廊下の先に湯屋があり、その向いが厠になっている。よしが身の周りの世話をするとしても、ここではすべて自分の意思で動かなくてはいけないのだ。一通りの間取りの案内をした後、
「夕餉の支度が整いましたらお持ちいたします。それまでどうぞゆるりとお寛ぎくださいませ。御用がございましたらこの鈴を鳴らしてくださいませね」
雪乃が小さな鈴が三つほどついた紐を手渡し部屋を出て行った。 これか……この鈴を私に鳴らせというのか…… 「さと」と小さな声で呼べば、いつもさとが来てくれた。湯殿に入る時も、いや厠に行く時さえもさとは手巾を持って外で控えていてくれた。それが鈴か、利重は小さくため息をついた。 (下に続く)

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