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養生所覚書~若葉風~
四方鞆哉とたきが所帯を持って、二年目の春である。 雪乃は朝の見廻りを済ませて自室に戻った。 近頃、体調が思わしくないようで心配していたたきから、子が出来たらしいと昨日打ち明けられた。しばらくは無理をしないようにと伝えたが、たきは休まず養生所に来させて欲しいという。鞆哉も雪乃と一緒なら安心だからと、それを許したらしい。 雪乃はたきが初めてこの養生所に来たときのことを思い、今のたきの幸せを心から嬉しく思うのだ。 それと同時にふといいようのない寂しさを感じることに、雪乃は自分でも戸惑う。 養生所での毎日の暮らしに不足はないのだ。雪乃はそんな思いを振り払うように、障子をあけた。まだ冷たさは感じるが、春らしさを纏って心地よい風が吹き込む。 「さあ、今日も一日頑張りましょう」誰に言うともなしに声に出し、雪乃は空を仰ぐ。 間もなくたきがやってくるだろう。無理の無いように、今日の段取りを決めておかなくては…雪乃は障子を閉めて文机に向かった。 初瀬亮之進は奉行から話があると呼び出されていた。急ぐ用事では無いので、都合の良い時にと言われていた為、今日あたり奉行を
sakae23
2025年12月3日読了時間: 40分
養生所覚書~朧月~
養生所の朝は早い。新しい年になったと思う間もなく、あっという間に如月が過ぎ去った。 朝の見回りを終えて薬園を巡る、早朝のこの時間を雪乃は好ましく思う。少しずつ風がやわらかくなっている。薬園では冬を耐えた薬草たちが目を覚ますように芽吹き始め、木々も仄温い芽を膨らませている。いよいよ春本番である。 薬園を回って雪乃が養生所に戻ると、たきが薬を煎じる準備に取り掛かっている。 「あら、たきさんおはようございます。お早いのね」 「おはようございます。今朝は早くから目が覚めてしまって……雪乃様は薬園でしたか」 「ええ、もうすっかり春めいてきましたよ」 たきはこのところ眠れないことが多いようで、雪乃はそれを心配している。眠れないことの理由が何なのか、おおよその察しはついているのだが、たきが話さない以上雪乃はそれには触れずにいるつもりなのだ。 数日前のこと、雪乃は初瀬亮之進に四方鞆哉のことで相談を受けていた。 「四方はここの所心ここにあらずで、何かあると思ってはいたのですが、あの萩の上が原因だったようで…」 「萩の上太夫…?」 「実は落合殿が身罷られ、萩の上…
sakae23
2025年7月5日読了時間: 36分
養生所覚書~いのこずち~
養生所は暑さが日ごとに薄れていき、はや秋の気配である。空は澄み秋の雲が爽やかに流れていく。 雪乃は洗濯物を干しながら空を見上げた。 ふたりの入所者が退所し、また新たな入所者が一人あった。毎日それが繰り返される。それぞれに事情を抱えた人の人生がある。 雪乃はそういった人の生き様に触れる時、つくづく運命の不思議を感じるのだ。秋がゆけば冬が来て、また新しい年がやってくる。人は皆その巡り合せの中でつましく生きている。 そのことが不思議であり、また嬉しくもある。 時折り養生所を手伝っているたきは先ごろ旦那を突然の病で失っていた。たきはもとは吉原の中見世で太夫を張っていた遊女だが、労咳の為に養生所へ入所したのが縁で雪乃を姉のように慕っている。たきの旦那は江戸でも大店で知られる材木問屋の主で、すでに六十を超えていたが、廓でのたきを殊のほか贔屓にし、病の癒えた後は養生所の近くの一軒家に住まわせ、自らもことあれば訪れてたきの手料理に舌鼓を打ったり、たきの弾く三味線に合せて一中節を謡うことなどを愉しんでいた。その田野屋の主が突然亡くなったことをたきは葬儀が終わった
sakae23
2025年7月3日読了時間: 40分
養生所覚書~晦日の月~
流行り病がやっとひと段落ついた年の暮である。どういう訳か春先から原因のわからない病がまん延し、なかなか収まらないままで師走を迎えてしまったのだ。 流行り病は一旦罹ると年寄りなどひとたまりもなく、寝付いたその日の内にほとんどが死に至った。小さな子供は罹りにくいというのがひとつ...
sakae23
2025年7月2日読了時間: 34分
養生所覚書~花咲く頃~下
しばらくはいつものように書物に目を落としていたが、どうにも落ち着かない。床の間に目をやると紅椿が一輪控えめに活けられている。 決して華美ではないがそれがこの養生所の住人達の人となりを現しているようでもあった。そのことは確かに好もしい。それでもこれから自分は此処でどのような生活を送るのだろうか、そう考えると俄かに不安な思いが湧き上がる。 「若様、お食事の用意ができました。今お持ちしてもよろしゅうございますか」 障子の向こうで雪乃の声がして障子が少しあけられた。利重は小さく肯く。 「はい。それではすぐにお持ちしますね」 雪乃は優しい笑顔で応え下がっていった。どこか懐かしい笑顔だ……利重はふとそう思った。そしてそんなことを思う自分自身に正直驚いてもいた。 「お食事をお持ち致しました。よしでございます」 障子が開き、よしが膳を置く為に利重の近くに座る。 「若様は特にお嫌いなものはないと、さと様からお聞きしましたゆえ、今日はお魚の焼き物と菜の花のお浸しに、香の物とお汁、そして……養生所ではめったに無い御馳走の、天麩羅です。海老と筍の……まだ揚げたてですよ」
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2025年7月2日読了時間: 27分
養生所覚書~花咲く頃~上
利重の胸を塞がせていたのは心ない人々の口さがない噂であった。 だが、本当の胸の内を知るのは当の利重のみである。何と思われてもかまわない、噂通りであると叫びたい気分に襲われる。乱心だと言われればその方が気が楽なようにも思う。 利重は小さくため息をつき、障子を閉めた。このまま誰にも会わず生涯を終えたい。 自分の出自を心底うらめしく思う。 「輿入れじゃと、私に……」利重は苦々しくつぶやいた。 私はいったい何の為に生まれてきた?父上の跡を継ぐなどもっての外、その力の無い事は充分わかっている。利成にはその資質がすべて備わっている。 私などこのまま消えてしまうのが一番良いのだ。それを妻を娶って生き延びよと父上は言う。これ以上私をみなの笑いものにするおつもりか。 幼少の頃から利重はいつも利成と比べられて育った。もともと虚弱な性質の上に、言語に些少難のある利重にひきかえ、弟利成には文武すべてにおいて将軍としての資質が備わっている。利重を見る父の目は嘲りと落胆に満ちていた。 利重は徐々に自分の殻に閉じこもるようになり、ごく近しく身の回りの世話をしている乳母のさとと
sakae23
2025年7月2日読了時間: 25分
おろく先生走る~萩の夜…二人いる~
道斎が今戸町のおすがの所に通い始めて半年が経っていた。おすが…染哉が今戸町で三味線と唄を教えていることを、平蔵が教えてくれたのだ。 染哉は益田屋の後添いにはなっていなかったのだ。それにしても何故…道斎は初めておすがを訪ねたときのことを時々思い出す。 平蔵の教えてくれたその家は蓮窓寺の門前向かいにあり、大店の別宅にしては手狭ではあるが、小さな庭も設えてある趣きの良い一軒家だ。 少し気後れしながらその表戸の前で「いるかい」と声をかけた。少し後に表戸が開き染哉が顔を見せる。あれほど会いたいと思っていた染哉なのに、道斎はとっさに何を言えばよいのか言葉に詰まった。 「おや、旦那何か…」 道斎を見ても染哉は驚くそぶりもなく、冷ややかにそう言っただけだ。 「いや…その…ここで一中節を教えてくれると聞いたもので」 「一中節を、旦那がかい」 染哉はふっと唇の端を歪めたが、道斎を中に入れてくれた。 もちろん一中節は咄嗟に出たことで、道斎にはその心得もなければ習おうという気もなかったのだが。 あの日から道斎は染哉、いやおすがに一中節の手解きを受けている。成行きとはい
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2025年7月1日読了時間: 31分
おろく先生走る~月おぼろ~
「先生、土佐が上がりやした」 表戸を開けながら仁太が叫ぶ。 「おう!すぐ行くぜ、場所はどこでえ」 仁太の答えを待たずに道斎は走る。 「先生、立慶橋ですぜ」 後ろから仁太が追う。通りすがりの男と女が一瞬立ち止まりその姿をあきれ顔で見送った。 金杉水道町の六兵衛店から立慶橋までは少しある。仁太は何も走る事はないと思うのだ。だが道斎はいつも全力で走る。 飯沼道斎はれきとした旗本の出だが、飯沼の家は長兄の斗馬が跡目を継いでいる。次兄の嗣綱は武道に長け、格上旗本大久保家の養子となった。道斎は三男で三男の憂き目を嫌というほど思い知らされてきたのだ。道斎が医師の道を志したのは飯沼の家を出る為であり、道斎にすれば医師であろうが祈祷師であろうが飯沼の家から離れる為なら何でもよかったのである。そういう埒も無い理由で道綱という名を捨てて道斎は医師となったのだ。 立慶橋の上は遠巻きに人だかりがしており、骸には筵がかけてあった。 「先生ご足労をかけやす。こりゃ身投げですな……若い娘が酷えもんでえ」 平蔵が筵を捲ってみせる。仁太は思わず顔をそむけたが、道斎は反対に顔を近づ
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2025年6月30日読了時間: 39分
やさしい侍~二重虹~
与八はこれは絶対にあたると言う。「正本製(しょうほんじたて)」人気が少しばかり下火になったのを受けて次の長編について提案してきたのだ。 「先生、ひとつ考えちゃあもらえませんかね。必ず評判をとってみせますから」 酒の席でのことではあるが彦四郎は少なからず興味を持った。 「源氏か……面白いやもしれぬ」 彦四郎の頭の中には光源氏に相当する人物が朧にではあるが浮んでいた。 このごろ江戸では黄表紙に変る合巻が持てはやされ、草紙屋は貸本屋と手を携え始めていた。絵草紙は一度あたりを取ると貸本屋を贔屓とする客の目にも止まり、なおも大きな評判をとることになる。 実際のところ彦四郎は評判を取るために書き物をしている訳ではなかった。それでも自分の書いたものが人々の目に触れ、巷で様々な噂になることは大いに心躍らせることに違いはない。 「正本製」は「九編立物抄お染久松物語」を送り出したばかりで、国貞の画とも相まって歌舞伎好みの客をつかんでいた。次の編の構想もすでに立っていたが、平行して新しいものを書いてみるのも面白い。 彦四郎は与八には生返事を返しながらもそう考えていた
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2025年6月29日読了時間: 21分
富士描く
「おやじさんにも困ったもんだよ」 荷車に最後の荷を積み込んだお栄は、弟子の為一に向かってため息をついた。 もう何度目の屋移りだろう。五十回をゆうに超えているから数も思い出せない。片付けの出来ないのは親譲りと開き直るお栄だが、屋移りをする手間には何度やっても辟易する。 「達者なのは何よりではないですか」 為一は慣れた手つきで荷を縛りつけた。今度の住まいはほんの二丁ほど先の裏長屋で今よりも狭いとお栄は言う。 荷は最小限にするようにと北斎は言うが、元よりそれほどの荷はありはしない。冨嶽三十六景を書き上げた北斎はその時の号をこの為一に譲り自らを卍、時に「画狂老人」と名乗っていた。 冨嶽三十六景は人気を得て、北斎もそれなりの金子を手に入れたはずではあるが、暮らしぶりは相変わらずである。北斎も、あろう事かお栄までがゴミ屋敷と化した部屋で寝食を忘れて絵筆を取る有様だ。 「屋移りするぞ!」 北斎のひと声でそれは始まる。わずかな家財を荷造りし、お栄も為一もそれに従う他ない。 この度の屋移りにはひとつの原因があった。それは江戸で人気が出始めていた「東海道五十三次」な
sakae23
2025年6月29日読了時間: 8分
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