養生所覚書~花咲く頃~下
- sakae23
- 7月4日
- 読了時間: 27分
しばらくはいつものように書物に目を落としていたが、どうにも落ち着かない。床の間に目をやると紅椿が一輪控えめに活けられている。
決して華美ではないがそれがこの養生所の住人達の人となりを現しているようでもあった。そのことは確かに好もしい。それでもこれから自分は此処でどのような生活を送るのだろうか、そう考えると俄かに不安な思いが湧き上がる。
「若様、お食事の用意ができました。今お持ちしてもよろしゅうございますか」
障子の向こうで雪乃の声がして障子が少しあけられた。利重は小さく肯く。
「はい。それではすぐにお持ちしますね」
雪乃は優しい笑顔で応え下がっていった。どこか懐かしい笑顔だ……利重はふとそう思った。そしてそんなことを思う自分自身に正直驚いてもいた。
「お食事をお持ち致しました。よしでございます」
障子が開き、よしが膳を置く為に利重の近くに座る。
「若様は特にお嫌いなものはないと、さと様からお聞きしましたゆえ、今日はお魚の焼き物と菜の花のお浸しに、香の物とお汁、そして……養生所ではめったに無い御馳走の、天麩羅です。海老と筍の……まだ揚げたてですよ」
よしが茶を淹れながら言う。
「ほとんどが雪乃様の手によるものですけれど……下ごしらえは私もお手伝いいたしました。お口に合うかどうかって、雪乃様が心配なさっていましたよ」
よくしゃべる娘だ。利重は膳の前に座り、箸を取る。
「あら……若様はいただきますとは仰らないのですか」
利重は驚いてよしを見た。無礼な娘だ。自分に対してこのような口をきくなどもってのほかだ。怒りが胸に湧いたが、利重は無視して箸を進めた。
「それでは若様、お食事が終わられた頃に下げにまいりますゆえ、ごゆっくりとお召し上がり下さいませ」
よしは静かに座って障子を閉める。行儀作法は身に付いた娘のようだが、あの物言いはなんだ。また怒りが込み上げてきて茶を一口飲んだ。
「ん……?」 程良い熱さで淹れた茶は、少しの甘味さえも感じる美味さだ。
茶の質だけでなく、それはあのよしの茶の淹れ方にもよるものだろうと、茶の湯の心得もある利重は徐々によしへの怒りが治まるのを感じていた。
並んだ料理はどれも丁寧に調理されていることがわかる。味も利重の口に合った。
「よかった!きれいに召しあがっていただけたのですね。雪乃様も喜ばれますよ、きっと、お茶をもう一杯お持ちしますね」
よしの物言いがどうも気にはなるが、ちょうど茶を所望したいと思ったところだ。
「雪乃様、若様とてもきれいに召し上がって下さっていました。どうやらお気に召したようですね。でも……相変わらずむっつりだんまりのままですよ。困ったものです」
雪乃は笑いながら「よかったこと」と頷く。
たきは二人を見比べながら、不思議そうにいう。
「雪乃様もよしさんも若殿様が怖くはないのですか。私だったら若殿様の御前だと思っただけで、それこそ口もきけなくなってしまう。よしさん、気詰まりではない?」
「ちっとも。若様だって同じ人間ですもの、たきさんもご挨拶に伺わない?いっぱいおしゃべりして差し上げれば気分も晴れるかもわからないし」
「まあ!とんでもない。私みたいな下々がお目にかかるだなんて、おしゃべりはよしさんにお任せします」
たきは大急ぎで食器を受とり、洗い場へ消えた。 よしは茶を持って利重の部屋へ向かった。
「若様、お茶をお持ちしました」
利重は書物に目を落としていた。何も応えずにだまったまま目を上げない。茶をその傍らに置きながら、
「湯屋の用意もできておりますが、いかがなさいますか」
と尋ねる。 利重は首を小さく横に振る。
「かしこまりました。それでは明日おつかい下さいませ。皆さんにそのようにお伝えしましょう。お床を延べますのはさと様に伺っているいつもの時間でよろしいですか」
利重は小さく肯く。
「それではその頃お床を延べにまいります。他にご用はございませんか。何かございましたらお呼び下さいませね」
奥の間では患者の診たてが終わった亮之進たちが夕餉の膳に向っていた。
「よし様、お疲れ様でした。どうぞこちらでご一緒に」
雪乃がよしにいう。たきと手伝いの吾一、文吉はすでに膳の前に座っている。
「よしさん、今日は若殿様のおかげでこんなご馳走。私もお言葉に甘えてご相伴させて頂くの」
「たきさんには本当によく働いてもらったのだから当然ですよ、たくさん召し上がって下さいね」
「よし殿、若殿の様子はいかがでしたか」
亮之進が尋ねる。
「はい、お食事も進みましたし、お言葉を話されない以外はお元気でございますよ。お湯は今日はよいとの事でした。肯くことと嫌々は意思表示されますから」
亮之進はそれは良かった、と頷いた。 明日からはいよいよ利重の心を開く為の手だてを考えていかなければならない。亮之進も鞆哉も気を引き締めた。
「宋州も明日は早くこちらに入るとのこと、何とかよい手だてが見つかればよいが……」
鞆哉が同様に頷きながらいう。
「若様に欠けているのは、人としての当り前のお心だと思います」
突然によしが真っ直ぐに亮之進と鞆哉を見て言う。亮之進は驚いてよしを見返した。
「人としての……?」
「若様は何事もご自分中心に回る事が当然と思われています。ありがたく思う心がかけておいででございます」
「それは、当然のことであろう。そういうお立場の方なのだから」
鞆哉がよしに対して少し威圧的に向き直る。そういう気持ちで若殿に向かうことは礼を逸することになるではないか。
「お立場はどうであれ、日々感謝の気持ちを持って過ごすことは、人として当然のことでございます。それは将軍様であろうが町民であろうが変りません。まして人の上に立つ方ならば尚更でございます」
よしはきっぱりと顔を上げていう。たきは目を丸くし、雪乃の方をみた。
「まあまあ、よし様、お考えは正しゅうございますけれど、何分にもお相手は若様でございます。お手柔らかにお願い致しますね」
雪乃は笑いながら、それでもよしを諌める。よしは「さようでございますね、少し言い過ぎました」と肩を竦め頭を下げた。
床を延べる為に利重の部屋に行くよしを見送り、亮之進が雪乃にいう。
「あのよしという娘、大丈夫なのでしょうか。若殿に失礼があってはなりませぬが……」 「大丈夫ですよ、よし様のおっしゃることは間違ってはおりません。任せてみようではありませんか」
雪乃にそういわれると、亮之進も鞆哉もそれ以上は何もいえず黙るしかなかった。 翌日は朝から榊宋州もやってきて、三人の医者があれこれと意見を出し合っている。亮之進の部屋だった客間の隣はよしの控えの間となった為、診療室にほど近い小さな部屋が亮之進の新しい居場所となっている。
「どうもあのよし殿には参ったものだ。今朝も若殿に床を畳むようにいったらしい」
「床を?」
「自分の床を畳むのはあたりまえの事と申すのだ」
「して、若殿は?」
「無礼な!とひとこと言われたらしい」
「喋られたか……」
「いかにも」
「そうか、これはもしかしたら荒療治かもわからぬな」
宋州は亮之進と鞆哉どちらにいうともなくつぶやいた。
「よしさん、今日はどんなことがありましたか?」
笊を持ってやってきたよしに、菜園で青菜を採っていたたきが面白そうに声をかける。
利重が養生所に来てひと周りが過ぎた。相変わらずだんまりを通す利重ではあるが、二日目には
「お布団は二つに畳んで下さいませ」
というよしに驚きの目をむけ、
「無礼な!」とおもわず声を出してしまった。それでもよしはひるまない。
「若様、自分の布団を畳むのは、当然のことでございます。小さな子どもも畳みます」
と悪びれる様子もない。
可愛げのない女だ……ため息は出たが、言われるままに布団を二つに畳んだ。 さらに三日目には
「若様、申し訳ございませんが、お済みになられましたら、こちらに膳を置いて下さいませ。膳が出ておりましたら、お茶をお持ちしますゆえ」
という。
私に膳を持てと申すか、と怒りで顔が赤くなった。 しばらくそのまま放っておいたが、いつまでたってもよしは茶を持ってこない。 利重は重い腰を上げて、障子を開け膳を置いた。
「今日、若様はお済みになった膳を部屋の外に出して下さいました。私はいつもよりもっと美味しくお茶をお淹れすることができました。嬉しいことです」
よしはそう言って笑った。たきは驚いたが、雪乃は黙って微笑み返しただけだった。そんな日が続いていたために、たきはまた何か進展はないかとたずねたのだ。
「今朝はとっても嬉しいことがありました。でもそれをお話しする前に……今日は青菜のお汁にしようと雪乃様がおっしゃるの。たきさんが菜園においでなので、青菜をいただいてくるようにって。それからお昼をご一緒にどうぞとのことですよ」
「あら、ありがとうございます。でも、今日は旦那がこちらに来ているので、またこの次にご馳走になります。よしさんのお話しもゆっくり伺いたいのですけれど……若様は何かお話しになりましたか」
「それがね、初めてよし、と呼んで下さったの」
「まあ!それって大変なことではないですか、よしさん!」
よしは大きく肯いた。 今朝、朝餉の後の茶を持っていった時のことである。部屋を出ようとしたとき、利重が「よし」と呼び止めたのだ。
よしはつとめて平静を装い「はい」と答えた。利重は明り取りの障子に目をやっている。
「今日は良いお天気でございますよ。若様、少し障子をお開けしましょうね」
障子を開けると朝の心地良い冷気が柔らかな日差しとともに入ってくる。萌えはじめた木々の緑が美しい。
よしは目を瞑って深く息を吸い込んだ。 利重はその横顔をどこか眩しい思いで見ていた。この娘はいったい何者なのだ。年の頃は自分とさして変わらないようだが、少しも媚びるところがない。良く見れば美しい娘でもある。正直なところ無礼者と思った当初の思いが徐々に変わってきていることに利重自身戸惑っていた。
一度茶の湯でも振る舞うことにしようか……よしが下がった後、利重にそんな気持ちまでが湧いていようとは、よしはもちろん、養生所の誰もが知るよしもなかった。
「雪乃様、今日はたきさんは旦那様がみえているので、帰られるそうでございますよ」 「そうですか……それなら仕方ありませんね」
たきの旦那というのは江戸でも一二を争う大店の主である。月に何度かたきのもとを訪れ幾日かを過ごす。雪乃も何度か会って話しをした事があるが、貫録のある立派な品の良い男で、しかもたきをことのほか大切にしている事が見て取れるのを雪乃は好ましく思っている。
「よし様、亮之進様たちがお話しを伺いたいと待っておいでです。私も後でお茶を持って伺いますね」
亮之進の部屋では鞆哉と宋州が揃って、よしの来るのを待ちかねていた。
「失礼いたします」
「おお、よし殿、雪乃殿にうかがったが、若殿は名を呼ばれたとか。誠でござるか」
「はい、よしとお呼び下さいました」
「して、その他には……?」
「いいえ、それだけでございますよ。私は障子を開けて差し上げ、若様は美味しそうにお茶をお召し上がりになりました」
「先ほど、利重殿にお目にかかって参りましたが、お顔も心なしか和らいだ風にお見受けしました。特にお言葉はありませんが、こちらの言うことには頷いて下さり、しっかりと意思は通じ合えましたぞ。よし殿はどのような術を使われたのですか」
宋州が驚きを隠せないといった顔でよしに聞く。
「私は何もしてはおりませんよ。若様はお優しい方でございます。私を無礼者と切り捨てることもなさらずに、我慢しておいででしたから」
お茶を運んできた雪乃がよしと並んで座る。
「若様は普通の人として接してもらう事を、心の何処かでは望んでおられたのではないでしょうか。跡継ぎとか、身分とか、そういうものを離れて、一人の人間として接するよしさんを、お認めになり始めているのではないですか」
「一人の人間として……?」
「さようでございますよ。若様とて一人の人間です。弟君のこと、嫡男としてのご自分の立場、御父君のこと、そういったことから離れたいと考えられても、少しも不思議ではございません。よし様はその若様のお気持ちに誰よりも早く気付かれた。そうではないでしょうか。やっと始まったばかりです。焦らずもう少しよし様にお任せしようではありませぬか」
亮之進達に異存はなかった。最初はよしに対して不信な目を向けていた鞆哉も、このひと周りでの以外な進展に驚いていた。
「もしかしたら、よし殿の存在が若殿のお心をひらく鍵になるやもしれませぬ」
宋州もうなずきながらよしの顔を見た。 よしは微笑んで雪乃と顔を見合わせる。それは誰しもに安堵の思いを与えるようなやわらかな、それでいて凛とした笑顔だった。
「しかし……あのよし殿は不思議な方です。雪乃殿はよし殿の素性をご存知なのですか」
千川の堤を歩きながら亮之進がいう。咲き切った桜が花吹雪となって舞い落ちる。夜桜を観に行こうと誘ったのは亮之進である。利重が養生所を訪れた時には満開に近かった桜はところどころ若い緑を覗かせている。それでもその散りざまは見事で美しい。花びらを受けながら雪乃は微笑む。
「お奉行様のお知り合いに行儀見習いに上がられていたと聞きました。あの方になら若様をお任せして大丈夫です。私はひとめお会いした時からそう感じていましたよ」
亮之進はあらためて雪乃を見る。雪乃の人を見る目は確かである。たきの時もそうだ。今まで、この人に任せて上手くいかなかったことがない。雪乃にはとても太刀打ちできやしない。 亮之進は苦笑いして花びらを掌に受けるしかなかった。
「若様、今日は少しお散歩しませんか?」
利重が養生所を訪れてひと月が経とうとしていた。朝餉の器を片付けて、よしが利重に話しかける。外はやわらかな日差しだ。実のところ利重はこのよしの問いかけや世間話しをする声を心待ちにしている自分に気付いていた。
よしの声を聞いていると心が落ち着くのだ。あれ程無礼なと思っていたものが、どこから変わっていったのだろう。 それも不思議なことではあったが、自分の中にこれほど自然に自分の立場や置かれた状況を離れて人と接する気持ちが湧いていることに自分自身が驚いていた。
「いくか……」 よしは目を輝かせて「はい」と応える。
利重はよしを伴って養生所を出て、薬園に向かった。
「あら、若様……」
薬草を摘んでいた雪乃が二人を迎える。
「あれは御種人参の花か」
「まあ、よくご存知でございますこと。さようでございますよ、お種人参の白い花が咲くと春もそろそろ終わりでございますね」
雪乃はうれしそうに答える。利重が薬草について話しかけてくるとは思ってもいなかったことだ。よしと利重のやりとりは毎日報告をうけていて、短い会話は交されるようになったこともよしから聞かされていた。 それでもその利重の問いかけはあまりに自然で穏やかで、雪乃さえ感動に胸が震えるほどだった。
風が心地よい。もう少し先まで歩こうと利重が言い、よしはそれに従った。 養生所へ帰ると榊宋州が入口で出迎える。
「若君、お出かけでございましたか」
「うむ、薬園あたりを歩いてみた」
宋州は驚きの目を利重に向け、それからよしを見た。よしは静かに肯く。
「それは……良い事をなさいました」
利重は宋州にしっかりと頷き、部屋にむかった。
「若様、すぐにお茶をお持ちいたします」
よしはその後ろ姿に声をかけた。利重が普通に声を発し、話しをしている。それが特別なことではなく、今迄もずっとそうであったかのような自然さであることが、尚更よしの胸を熱くしていた。
「それにしても、若様がお種人参をご存知だなんて驚きました。よしは初めて知りました。あの花のこと」
利重の前に茶を置きながらよしは心底感心していう。
「幼い頃、さとに教わった。あれは父上が民の為に奨めて植えたものと聞いた」
「まあ、さようでございますか。殿様はいつも皆のことを考えておられるのですね」
よしの淹れた茶は程よい熱さで利重の喉を潤す。
「よし、そなた兄弟がいるか」
「はい、兄が二人おります」
突然の利重の問いかけに、驚きながらよしは答える。
「どのような兄者だ」
「どのような……上の兄はしっかり者で、下の兄は優しゅうございます」
利重は頷き少し笑った。優しい笑顔である。
「私にもしっかり者の弟がいる」
よしの胸はたとえようのない感情でいっぱいになる。この切なさは何?よしはそっと利重から目を逸らせた。
「若殿のご回復はめざましい、よし殿以外にも言葉を交わされるようになられておるようだし……信じられん」
榊宋州は四方鞆哉に酒を注ぎながらそう話す。鞆哉はそれを飲み干しながら頷く。 まだひと月、よもやこれ程早く利重の声が戻るなどとは宋州も鞆哉も考えていなかったのだ。
「あのよし殿の手柄だな、それにしてもこんなに首尾よくいくとはな」
鞆哉はなかば気抜けした感じが否めず、ため息をついた。宋州はそれを諌めながら、
「だが、若殿が以前以上の心の平静を取り戻されたのは事実であろう。これは喜ばしいことだぞ」
「この分だと心の平静を取り戻され、屋敷に戻られる日も近いやもしれんな」
屋敷に残る狩野重蔵には逐次事の成り行きを報告している。重蔵は手放しの喜びようで殿もこの利重の変化に胸を撫で下ろしておられると、頭を下げられたばかりである。
「我々はお膳立てをしたに過ぎぬが、こう簡単にことが進むと、どこかでまた元の木阿弥になられるのではないかと、かえって不安になる。そうは思わぬか。このまま嫡男としてまた、屋敷に戻られ、奥方を迎えられる……その重圧に耐えられるのか」
宋州にしてもその心配は同様である。今ことを急ぐのはかえって逆効果ではないのか。二人の意見は結局そこに落ち着いてしまう。
養生所の季節の移ろいは、木々や花々によっていち早く知らされる。雪乃にはそれが何よりの喜びに思える。山法師の花が今年も白い花を咲かせた。緑が少しずつ濃くなっていき、初夏の風が心地よい。
「若様、そちらにまいりましたよ。ほらほら」
「こら、まてまて、またぬか」
雪乃は声のする方を見る。
「文吉さん、よしさんと若様は何をなさっているのですか?」
「二人でたまの子を捕まえてるんだよ。あのぶち公をよしさんが気に入って自分の猫にするんだって」
「まあ。そうなのですか。たまの子はあのぶちが一匹残って、どなたかに貰ってもらえればと思っていたところです。文吉さん、手伝って差し上げてね」
「雪乃さん、あの二人ああして楽しんでるんだから…おいらの出る幕はないや」
いつの間にか大人びた口を利くようになった文吉は、今年十三歳になっていた。たまの世話は相変わらず文吉の役目ではあるが、たまが姿を消しても、文吉は以前のように慌てることもなかったし、たまが子連れて戻ってくると、その子を貰ってくれる家を探し歩くのも文吉の役目だった。
「よしよし、じっとしておれ……よし!捕まえたぞ!」
「まあ!何て可愛いこと!」
利重の両手にしっかりと抱かれた子猫は白と黒の斑猫で、鼻の所にある黒い点が愛嬌である。
「あら、雪乃様、おはようございます」
雪乃に気付いたよしが頭を下げる。
「若様、よしさん、おはようございます。今日も良いお天気になりそうですね。子猫、よしさんに飼っていただけるのですか?」
「はい、文吉さんにお願いしたところです。ね、若様」
利重は静かに笑っている。雪乃も微笑んで肯く。利重が養生所に来て三月が過ぎていた。 利重はあの心の病が嘘のように穏やかな明るさを取り戻していた。
養生所に集った三人の医師たちは、相変わらず難しい顔をして膝を突き合わせている。
「若君をそろそろ屋敷にお戻しするべきではないか」
榊宋州がそう切り出す。四方鞆哉ももちろん亮之進もそれには異存はない。ただその時期について頭を悩ませているのだ。 「若殿とよし殿は少し親密になりすぎてはいないか」
鞆哉が亮之進に尋ねる。亮之進は「うむ……」と腕組みをして思案の顔を見せる。 この事は亮之進のもっとも危惧する所だった。
明らかに、利重の胸の中ではよしという存在が大きくなっているがわかる。 今よしと利重を離す事が、はたして良い方法といえるのか、かといって長くこのままの状態を続けた場合、ことはもっと深刻になりはしないか。
「狩野殿は一日も早く若君の御帰還を……と言われる。弟君の婚礼が差し迫っておられるらしい、若君の婚礼も急がせたいご様子だ」
「よし殿を一緒に屋敷にお連れになるというのはいかがであろうか。屋敷にはさと殿がおられるが、このまま若殿に仕えていただくのも良いと思うが……」
「さて、それはどうであろう。あくまでもよし殿は若殿が養生所におられる間お仕えする、という約束で奉行にお願いした娘御だからな」
「そもそも、よし殿はどういった娘御なのか、初瀬殿は仔細をご存知なのですか」
「いや……さるお屋敷に行儀見習いに入っている娘御と聞いたが、仔細はわからぬのだ。雪乃殿も詳しくは話されない」
宋州は鞆哉と顔を見合わせため息をつく。利重の心中を思うといささか気が滅入った。 狩野重蔵によると利重不在は承知の上で、輿入れの話しは進んでいるという。弟君の輿入れはもう間近にせまっていて、利重側としては何とか結納まで早急に持ち込みたいという所だろう。
「若殿はどのようにお考えなのだろう」
「ん?輿入れのことをか?」
「ご自分のお立場を忘れておられるのだろうか」
「忘れられたからこそ、あのように自然にふるまわれておるのであろう。このままで良いとは思われてはいないであろうが……」
三人はまた黙りこむ。どこまでも生真面目な男達なのである。
「あら、どうなさったのですか。難しいお顔で」
雪乃が顔を出し、笑いながらいう。
「雪乃殿、良いところに来られた。ご意見をお聞かせいただきたい」
宋州が雪乃に向かい切り出す。
「若君とよし殿のことです。お二人は少し親密になりすぎてはおられませぬか」
「確かにお二人の睦まじさは日に日に増しているようですね」
宋州は頷き、鞆哉と亮之進を見る。
「われわれは、そろそろ若殿をお戻しすべきではないかと考えております。この若殿のご快復がよし殿の力によるものなら、今よし殿を若君から離してしまうことが良いとは到底思えず、頭を悩ませております。雪乃殿はどうお考えでしょう」
亮之進が三人を代表して雪乃に尋ねる。
「さようでございますね。お屋敷の方での若様のお立場もございましょう。もうしばらくお時間を頂けますか。私の方からお二人にお話ししてみましょう。お二人にはお二人のお気持ちもございましょう。ご安心なさいませ。きっと良い方向に向かいますよ、ここは私にお任せ下さい」
利重には一つの思いがあった。屋敷では重蔵がやきもきしていることも利重の耳に届いていた。よしが屋敷の様子、重蔵やさとの事を教えてくれていたのだ。利成の輿入れが間近になっていること、その為に重蔵が自分の嫁取りをあわてて推し進めていることなどもよしは包み隠すことなく、利重の耳に入れてくれていた。
「若様、狩野様はそれだけ若様のことを思っておられるのですよ。若様のお立場は本当に大変と、よしには重々お察し出来ます。でも……それがお世継ぎとしてお生まれになった若様の避けられないお立場なのです。ただ黙っておられては何も伝わりません。逃げていてはだめでございます。ご自分の口でご自分の言葉でお考えをお話しになる事です。はっきりと」
利重は家督はすべて利成が継ぐべきと、常々考えていた。文武どちらにも長けた利成が父の跡を継ぐべきであり、その上で自分は隠居として独り身を通すつもりでいた。
だが、養生所に身をおき、世の中のこと屋敷のことをいろいろと考える機会を得た。
それは、よしの優しく包み込むような言葉や時には叱咤の言葉が齎してくれたものであり、自分が今まで考えていた頑なな思いとは別の思いを胸に宿らせるもとともなったのだ。
利成が跡を継ぐことには異存はない。父上がそう考えられるのならそれを受け止めよう。だが、自分は口をつぐんでしまうのではなく、世の中の為に自分で出来ることをするのも良いと思いはじめたのだ。
父が世の中の為にこの薬園、養生所を造ったように、自分にも何かできるのではないかと考えるようになっていた。 そして、これからも傍らにいて欲しいのは、誰でもなくよしであることにも気付いていた。
よしは自分をどう思っているのだろうか。利重はそのことをよしに尋ねそびれていた。よしの気持ちは単に自分の身分に対してのものだ、どこかでそう思いながらも、それを超えて自分に寄り添ってはくれないだろうか……日に日にその思いは強くなっていった。
朝夕の風が心地よくなったある日、かねてより利重の身を案じていた重蔵がしびれを切らして養生所を訪れた。
「若、今日こそはご決断を…重蔵、これ以上は待てませぬぞ」
利重は少し笑って重蔵を見た。
「わかっておる。重蔵、いろいろと造作をかけてすまぬ」
利成の祝言が翌年の卯月に執り行われるという。それまでに利重の婚礼の儀を整えなくてはいけない。浅野のお家ではいつでも輿入れの用意は整っているとのことだ。何とか日取りだけでも決めておかねばならぬと、重蔵は考えているのだ。 利重も屋敷に戻る為の準備をしていたところだ。
「逃げていては駄目でございます」よしはそう利重を諭した。
自分の側に居て欲しいと打ち明けた時も、よしは利重の目をまっすぐに見て言った。
「若様のお気持ちは嬉しゅうございます。よしもずっと若様のお側にいとうございます、でも、それは許されることなのでしょうか。若様にはお父上様のお決めになった御縁談がおありでしょう。お相手の方のことをいかがなさいますか。はっきりと若様の言葉でご自分のお気持ちを話されるべきです。黙って私をお連れになることは、許されることとは思えませぬ」
よしはひとまず養生所を出て、行儀見習いをしている屋敷に戻ることになった。利重は父に背くことになったとしても、はっきりと自分の気持ちを伝えなくてはと考えていた。
その上で改めてよしの事を認めてもらうと決めたのだ。
相手方にも無礼を詫びる必要がある。黙っている事は卑怯だと、よしは言った。それは黙ってしまう事よりも、何倍も勇気のいることであったが、利重はきちんと筋を通す道を選んだ。その上でよしとの事を父に話すつもりだ。
今までの自分であれば、煩わしいことには口を噤んだだろう。自分の中に閉じこもっていることは、自分にとっては一番楽なことであった。
そんな気持ちを根本から変えてくれたのはよしである。養生所を出る時によしは利重に言った。
「若様、すべては動き出すことから始まるのです。これから先、若様のお気持ちがしっかりと殿様に伝わった時には、きっとまたお会いできるでしょう。よしはその日を楽しみにお待ちしております」
動き出さなければ何も始まらない。その通りだ。逃げることは卑怯なことだ。世継ぎのことも父上に自分の思いを伝えなくては…… 長月に入ると急に心もとない寂しさを覚えたが、よしとの約束を違える訳にはいかない。利重は屋敷に戻り、父利家のもとを訪れた。
「若殿はその後いかがされているでしょうか」
初瀬亮之進が薬種を調合しながら雪乃を見る。
「さようでございますね。若様はなかなかお強い方でございます。お身体もお心も……私は何も心配はしておりませんよ」
雪乃は少し微笑んで亮之進に肯く。その後の利重については逐次報告が届いていた。 利重は父のもとへ出向き、自分よりも利成の方が世継ぎとしての資質を備えていることは承知の上で、自分にも嫡男として父の役に立つことが出来るのではと考えていること、利成が跡目を継ぐことには何の不服もないことを話した。
(その時の殿様の驚きを何とお伝えすればよいのでしょうか。利重様がご自分の目を真っ直ぐに見て話されることに驚かれ、立派なお言葉に驚かれ、ご自身のお言葉も出ないご様子でございました)
さとの手紙にはその時の様子がそのように記されていた。
(輿入れ予定の浅野家では、いつその日が来ても良いように、準備万端あい整い、姫はすでに江戸入りされているよし、利重様は殿様に婚礼の中止を申し出られましたが、快いお返事は得られませんでした。若様は姫様に直接お会いになり、ありのままをお話しなさるおつもりでございます)
「それにしても若殿のお変わりようには、殿でなくても驚かされますぞ、それに、若殿はよし殿のことを浅野の姫に話されるおつもりか……私にはそこのところが解せませぬ。姫のお立場を考えられているのか、姫は深く傷つかれましょう。これはどうにも納得が行きませぬ。そういえば、よし殿は恙なくお過ごしでしょうか」
「よし様……お変わりなくお過ごしですよ、みいも大きくなったとお聞きしました。あのお方も本当にお強い方」
雪乃は遠くを見るように目を細める。亮之進はこんな時、いつも不思議な気持ちになる。雪乃にはこれから起こるすべての事が見えているのではないか、そんな風に感じてしまうのだ。
浅野家の佳子はすでに輿入れの支度を整え、若年寄大江成光の屋敷で将軍家に嫁ぐ為の心得を受けていると聞く。利重は佳子の気持ちを慮り、少なからず心を痛めている。
利家にはこの度の縁談の中止を申し出たものの、それは出来ないと突っぱねられた。相手はもうそれ相当の支度を整え江戸に出て来ている。どうしてもというなら、直接浅野家に談判せよという。
利重が思い悩んでいる間にも刻々と日にちは経っていくのだ。長引かせればそれだけ佳子の心を傷つけることになる。利重は大江の屋敷にいる佳子に文を送ることにしたのだ。
「さと、女にとって自分の意には関係なく進む縁談であっても、それが望まれないとなるとやはり大きな傷になるのであろうの、私は浅野の姫にこの上なく酷いことをしようとしているのだな」
「若様、浅野の姫様は遠く里を離れられて若様へ嫁がれる日をお待ちでしたのに……確かに酷うございますよ。でも、望まれないままに嫁がれるのはもっと酷うございます。今はお辛くても、きっとまた良いご縁に恵まれると、さとはそう思いますよ」
さとは利重の本復を心底喜び、浅野家との婚姻の件に関しても利重の意のままにと言ってくれるのだが、重蔵にいたっては、怒りでしばらく利重に口をきいてくれない程だ。
重蔵は利重の婚礼を何よりも待ち望んでいたのだ。幼少の時から側でずっと利重の成長を見守ってきた。難しいお子ではあったが、我が子同然に思って仕えてきた。
心を閉ざしてしまい言葉を失くしてしまわれた時も、いつかは殿の跡目を継がれる、それを信じて快復を祈った。
それまで以上に心身共に快復された利重は利成にも決して引けを取らない立派さで、重蔵は思わず涙を抑えることができなかった。 それが、婚礼を止めるといわれる。
利成の婚礼は相整いあとは翌年の輿入れを待つばかりだというのに、これでは嫡男としての面目もたたぬ。さとは若に任せようというが、重蔵には到底納得の行くことではなかった。
利重は心落ち着かせて佳子に宛てた文をしたためた。何を書いてもそれは言い訳である。嫡男としての重みで自分が心を閉ざしてしまったこと、養生所で心身の静養を余儀なくされた時に、身の周りの世話をしてくれた女人により、人としての心を取り戻せたこと、佳子の心を傷つけることは解っていながらも、その女人の事を大切に考えたいと自分の胸中を正直に綴った。佳子に自分の気持ちを知ってもらった上で、浅野の家に破談を申し入れるつもりだった。 佳子から文が届いたのは三日の後である。
(利重様のお気持ちお受け致しました。つきましては一度お目通りいただきたく思っております。お目にかかり私のお返事をしとうございます)
短い文であったが、心の乱れの感じられない柔らかな文字であった。利重はすぐに使いをやり、佳子は屋敷を訪れることになったのだ。
利重はその日のことを生涯忘れることはないだろう。 長月廿日、佳子は供を伴うこともなく、美しい小袖姿で利重の屋敷を訪れた。
「浅野宗長の娘佳子にございます」
さとは目をみはり、重蔵は口をあんぐりと開けたまま言葉を失った。いったいこれは何の戯言か…… さとには一瞬の内に事の成り行きが呑み込めた。
「雪乃殿、お見事!」さとは思わずそう叫びたくなる胸を押さえて、利重の部屋へ佳子をいざなった。
「若様、浅野の姫君がお着きにございます」
「中へ……」
障子が開き、佳子は深々と頭を下げている。
「顔をお上げ下され」
しっかりと顔を上げた佳子の目は涙に濡れていた。
「よし……まさか……」利重は思わず声をあげた。
明けて如月、利重と佳子の祝言が滞りなく執り行われた。白無垢姿の佳子は誰の目にも楚々として美しく、重蔵はその姿をまともに見られない程涙にくれ、さとに諭されている。
祝言の席には養生所の雪乃をはじめ、三人の医師、たきまでもが招かれた。異例のことではあったが、二人のたっての願いを利家は受け入れたのだ。
また正室を大奥にという習いに背き、利重は佳子を屋敷に居住させ、ふたりでの日々を穏やかに送っている。猫のみいももちろん一緒だ。
「若様、もうすぐ桜が咲きますね、養生所はすっかり春でしょう」
「よし、花の咲く頃にふたりで養生所を訪ねよう……雪乃殿や皆は息災であろうか」
養生所では、温かくなった風を体いっぱいで感じるように薬草が靡き、雪乃とたきが甲斐甲斐しく働いている。その姿を眺めながら、今年ももうすぐ花の季節か……と亮之進はひとりごちた。
花の咲く頃、ふたりを迎える養生所には、一段と春らしい柔らかな日差しが差し込むことだろう。
利家は利重、利成が協力して政を行うように計らい、自ら長きに渡って政権を握った後、利重に家督を譲った。利重もまた、生涯を民の為にという意思を貫いたという。 了

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