養生所覚書~晦日の月~
- sakae23
- 7月2日
- 読了時間: 34分
更新日:7月3日
流行り病がやっとひと段落ついた年の暮である。どういう訳か春先から原因のわからない病がまん延し、なかなか収まらないままで師走を迎えてしまったのだ。
流行り病は一旦罹ると年寄りなどひとたまりもなく、寝付いたその日の内にほとんどが死に至った。小さな子供は罹りにくいというのがひとつの救いではあったが、小石川養生所でも日夜医師が集まり手を尽くした甲斐も無く、大勢の患者が亡くなり、医師の初瀬亮之進をはじめ、看護にあたる雪乃たちも成す術もなく唇を噛むほかなかった。それが涼しい風が吹くころから、少しずつ患者の数が減っていき、師走に入った今、やっと終息の灯りが見えてきたのだ。
「おまえさん、今日も養生所に詰めるのかえ」
「おお、そうさな。今夜あたりは家でめしが食えそうだぜ」
問われた道斎は、十徳を引掛けながら応える。
「そうかえ…」
おすがは少しだけ唇の端を上げたが、それ以上何も言わず、十徳の衿の折れを直した。
飯沼道斎は医師である。女房のおすがは羽織芸者のはしりで、きっぷのよさと、三味線の上手さで売った深川芸者だった。この二人がひょんなことから一緒になった。これは養生所の中だけでなく、二人の住む菊坂町界隈でもいっときの話の種として人々の口にのぼったものである。
道斎は医者ではあったが、手のいる時には小石川養生所に詰め、手のいらない時には役人に頼まれて、死人の検屍を主に行うため、死人の医者など縁起が悪いと、実入りの方はさっぱりである。暮しは、おすがが芸者衆や商人相手に教える小唄や三味線の月の謝礼と、付け届けで賄えているのが本音である。
おすがが、小さいが三味線を教えられる菊坂町の一軒家に家移りしたのは三年前で、ほどなくして道斎が転がり込んだ…と噂では、そういうことになっている。
粋で美しいおすがと、ずんぐりした、決して見目が良いとはいえない道斎との馴れ初めを、誰もが知りたがったが、おすがも道斎もあいまいに笑うだけであった。
三年近くたった今でも、二人には子供が出来ず、口さがない連中の中には、またあれこれいうものもいるが、道斎の人となりを知った隣人たちは、一様に道斎を捕物先生と呼び信頼しているのだ。
「行ってくるぜ」
「あい、いっといでな」
医者らしくないといえば医者らしくない道斎と、どこかに羽織芸者の気風を残すおすがは
人の目はどうあれ、何とか無事に三度目のふたりの師走を迎えている。
養生所では、久しぶりに担ぎ込まれる病人が無い朝を迎えていた。雪乃もたきも、久々にいくらか落ち着いて朝餉を済ませ、お茶を淹れることが出来た。人心地つくというのは、こういうことだと、雪乃はこのまま平穏な時が続くことを祈った。
「雪乃殿、おはようございます」
「あら、おはようございます飯沼様、お早いですね。今朝は新たなご病人がなかったのですよ」
「それはよかった。この分だと何とか穏やかな新年になりそうですな。私の出る幕も無くなりそうだ」
「このまま、捕物もなければ、本当に飯沼様の手はいらなくなるかも……ですよ」
たきが軽口をたたく。道斎の女房おすがとたきは深川、吉原と場所は違っても同じ界に身を置いた者同士ということで、近しく行き来をする仲である。
道斎が苦笑いしながら、診療部屋へ向かおうとした時、仁太が大慌てで駆け込んできた。
「道斎先生の所へ伺ったら、もうこちらへ出られたあとだったもんで、先生、平蔵親分が来ていただきてえといってやす」
「おう仁太、捕物けえ。おたきさん、どうやらのんびりとはいかねえようだぜ」
にっと笑って、道斎は仁太に続いた。雪乃とたきは顔を見合わせて、くすりと笑う。
ひさびさの明るい朝である。
「仏は土左か?」
「男の首縊りでさあ」
仁太は顔を歪めていうと、足をゆるめた。
「それが……首縊りにしちゃあ、ちょいと解せねえと親分が」
「ほう、解せねえか」
道斎は無理に難しい顔をして頷いた。死人には申し訳ないが、解せないと聞くと腕がなった。
「あの店でやす」
仁太が指差したのは、比較的大店で知られた水菓子屋の兼増だ。道斎の住む菊坂町からもさほど離れていない為、道斎も店の名は知っている。
「兼増か……」
中へ入ると同心の深見が店の者を集めて話を聞いている所だ。土間に降ろされた骸には筵が掛けられ、隣で若い女が座り込み泣きじゃくっている。
「先生、朝からすまねえ」
平蔵が道斎に手招きをする。ちょいとすまねえな……と女を離し、道斎は筵をはがした。
「手代の成吉です。朝、この女中のおみつが梁からぶら下がっているのを見つけやした」
おみつと呼ばれた女は、また泣き始めた。
「ん?この仏、やけに綺麗じゃねえか」
「先生もそう思いやすか」
首縊りの仏はだいたいが酷い有様である。それが、この成吉は穏やかな顔で、着物の乱れも少なかった。
「そうさな、あり得ねえこともないが、綺麗すぎるのも気にはなるな」
道斎は着物の裾をひょいとめくり、また「う~ん」と唸った。
「先生、ご苦労様です。どうですかな」
深見が側にやってきていう。同心の中には自分自身で死人を吟味し、医者よりも詳しい見立てをする者もいるが、深見は違った。餅は餅屋よ、といつも道斎の意見を仰いだ。
「首には、確かに腰紐の跡がはっきりと残ってはいるし、その跡も梁からぶら下がっていたのを裏付けるように、耳の後ろまでついている……首縊りには違いないようだが」
足もとに転がっていたのは、木箱で、成吉はこの上に乗り梁へ紐を通して、首を縊ったということだろう。
「それで、仏が首を縊くるには何か訳があったのですかね」
反対に道斎は深見に訊ねた。
「成吉は手代になったばかり、ましてや言い交わした娘もいたようで、主はありえないことだと言うんですがね……」
そう言いながら、深見はおみつの方を目で差し示した。
「なるほど、言い交わした娘というのは、お前さんかい」
道斎がおみつに向き合うと、おみつは一層怯えた目で、かぶりを振った。
「えっ?違うのかい。兼増の皆はそう言ってるぜ」
深見が大きな声を出し、おみつはまた声を上げて泣き始めた。
平蔵がおみつの側にかがみ込み、背中をさすって落ち着かせてから、小声で聞く。
「おめえでなければ、成吉の女は誰でえ。知ってるなら教えてくんな」
おみつは泣き止みはしたが、俯いたまま唇を噛んでいる。
「まあ、仏をこのままにはしておけねえ。兼増では店で弔いを出すそうだ、平蔵、仁太、奥に運んでやんな。おみつ、おめえにはちょいと番所まで足を運んでもらうぜ」
深見に言われ、おみつはゆるゆると立ち上がった。
「先生、仏の方は頼みますよ。首縊りには違いないだろうが、入念に診て判断してくだせえ」
成吉は、奥の使用人たちが住み込む部屋のひとつに運ばれた。手代である成吉には、狭いが一部屋が割り当てられていた。
「成吉には湯島四丁目の長屋を借りる手筈をしており、おみつとの仲も許しておりました。そんな矢先に、どうしてまた……手前どもの方が狐につままれた思いですよ」
成吉の骸を前に、主の兼谷桝衛門が言う。
「おみつは、成吉と言い交わしてはいねえと言ってるぜ。いってえどうなってるんだい」
「親分、成吉は自分で首を縊ったのでしょ。何かご不審なことがおありなんですか」
横から桝衛門の女房のお蔦が不満そうな声をあげる。その声を制するように平蔵はお蔦を睨んだ。
道斎は、主と女房、居並ぶ使用人の顔を見渡した。
「仏に所縁のある人は、皆さんの他にはおられませんか」
「成吉は早くにふた親を亡くしてまして、身寄りはおりません。親しくしていた知人もいないと思いますがね」
女房が何か言おうとするのを目で抑え、舛衛門が答えた。
「それで、その手代の相手は誰だかわかったのかえ」
「それが……今一つはっきりしねえのよ」
その日は養生所に詰めることもなく、いったん家に戻った道斎は夕餉のあと、おすがに問われて首を捻る。
番所に連れていかれたおみつは、しばらくは何を聞いても唇を噛んでうつむくばかりだったが、深見が「いいかげんに話してくんな、そうでなきゃ成吉も成仏できねえ」
と言うと、やっと口を開いた。
「あたし、成さんに頼まれたんだ。旦那さんやお内儀さんに聞かれたら、そういうようにいわれて」
「ほう、頼まれた……それなら成吉の相手は誰よ」
深見がじろりとおみつを睨みつけると、おみつは力なくかぶりを振り、下を向いた。
若い娘をいつまでも番所に留め置くことも出来ず、おみつはそれからすぐに兼増へ戻された。
「どうであれ、死ぬことはないだろうに……」
おすがは遠い目をしていう。道斎は湯呑茶碗を持つ手をふと止めてその顔を見る。
「そうだな」
あれから何年がたつだろうか。あの時のおすがもこんな目をしていた。
おすががまだ深川芸者として名を売っていたころ、同じ置屋の芸者吉哉と男衆の一人が懇ろになった。男衆は置屋を辞めたいと申し出たが、置屋の主はそれを許さず、結局二人は引き離されることとなった。吉哉はおすがが妹のように面倒をみた女で、吉哉の方もまたおすがを姉のように慕っていたのだ。
それからほどなくして、吉哉は男衆と自死して果てた。男の方が匕首で吉哉を刺し、その後で自らを刺したものと道斎は見立てた。二人の左手首はしっかりと紐で結ばれ、覚悟の自死であると見立てたのも道斎である。
駆けつけたおすがは、呆然と立ち竦み、「死ぬことはないじゃないか」とぽつりとつぶやいたのだ。
「吉哉だけどさ、あの子綺麗な顔しててさ。政さんもちっとも苦しそうな顔をしてなくて……でも、死ぬのは間違ってるとあたしは思うよ」
おすがもあの時の事を思い出していたようで、突然にそう切り出す。
「生きてりゃ、二人一緒になる手立てがあったかもな」
「ま、済んじまったことさ」
おすがは薄く笑って、湯呑に新しい茶を注いだ。
その湯呑に手を出しかけて、ふと道斎はおすがに訊ねた。
「おい、さっき吉哉も政もきれえな顔をしてたと言ったか」
おすがの返事を待たずに、道斎は十徳に手を伸ばした。
「出かけるのかえ」
「おう!ありがとうよ、おめえの言葉で糸口がみつかったぜ」
道斎は平蔵の長屋がある小石川下富坂町まで走った。
「おや、こんな時間に先生、どうしやすった」
「今日、親分の知っている界隈で、弔いはなかったかい」
「弔い?」
「深見殿の見回り範囲の他で、首縊りや身投げが無かったかを知りてえのよ」
「そういやあ、柳町の青物問屋の内儀がいけなかったらしいですが、それが今朝の内に弔いもそこそこに葬られたってんで、おかしなことだと。いえね、深見の旦那の言われることで、直接あっしが聞いた話じゃありやせんが」
「青物問屋の内儀か……」
「成吉の件と何か関係があるとお考えで?」
「いや何とも言えんが、親分、明日青物問屋へ一緒に行ってもらえねえか」
「よござんすよ。成吉の件は、あっしもどうもすっきりとしませんや」
道斎はその日はそのまま菊坂町へ戻ったが、床に入ってもなかなか寝付けなかった。
「おまえさん、捕物に深入りはおよしよ」
何度も寝返りを打つ道斎に、背を向けながらおすがは言う。
「ああ、わかってる」
小さく応えて、道斎はようやく眠りに落ちていった。
柳町の青物問屋「みよ志」は何事もなかったかのように、朝の賑わいを見せていた。
主の三善徳兵衛は胡散臭い目で道斎達を一瞥したが、
「これはこれは小石川の親分、手前どもに何か御用の筋で……?」
と平蔵に向き直った。
「この度はお内儀がとんだ事で……ご病気で伏せておられやしたか」
「手前どもの内々のことでございます。どのようなお調べでございますか」
慇懃に話してはいるが、あきらかに二人の訪問を快く思っていないのが見て取れる。
「あまりに早々に荼毘に付されたのは、何か訳でもあったのですか」
道斎はまっすぐに徳兵衛を見て訊ねた。
「そんな、訳などございません。手前どもは商い人でございますよ。不吉なことは長引かせたくないですからね。お絹は突然に身罷りましたが、それはあくまでも内々のことで、昨日一日は喪に服しました。明けて皆さんの迷惑とならないように、商いをしております。それがいけないことと言われますか」
「ご主人、立ち入って聞くが、お内儀は自死ではなかったのですか」
平蔵は驚いて道斎を見たが、道斎は徳兵衛から目を離さず答えを待った。
「何をおっしゃいますか。親分、こちらはいったいどなたで……聞き捨てならぬことをおっしゃる。お絹は心の臓の病で身罷ったのですよ。無礼なことを言わないでもらいたい」
「医者には?」
動ずる事なく道斎は重ねる。
「もちろん診ていただきましたが、これ以上はあなた様にお話しすることはございません」
徳兵衛はそう言うと、「お帰りだよ」と入り口にいた若い衆に声をかけた。
「先生、ありゃあいけませんや。ああ面と向かって問い詰めても、主は本当のことは言いやせんぜ」
道斎は苦笑いし、頷く。
「だが、あの男、落ち着かぬ目をしておったぞ。お絹といったな、内儀のことをよく見知った者がおれば、教えてほしいのだが」
「何だかよくは分からねえが、面白い。ようござんすよ、探してみやしょう」
その日道斎は、夕方から養生所に詰めるように頼まれた。おすがには「朝から忙しない、少しはゆるりとできないもんかえ」と小言を貰ったが、手がいると言われるのはありがたかった。
「飯沼様、また捕物を?」
雪乃が笑っていう。仁太が道斎に頼まれたと、柳町の青物問屋に出入りの医者はいないかと聞きに来たばかりである。
「なんと……仁太のやつ養生所にまで来ましたか。いえね、捕物というほどのことではありません。どうも些細なことが気なるもので。雪乃殿にまで余計な手を取らせました」
「いえいえ、私は何も。亮之進様が気にかけておいででしたよ」
初瀬亮之進は道斎と同じ年ではあるが、養生所を束ねる役回りの医者である。道斎を不定期ながら養生所に誘ったのもこの亮之進で、道斎も当然ながら一目置いている。
「あ……さようで。初瀬殿には私から話しましょう」
診療部屋に行くと、亮之進と四方鞆哉が話し込んでいる。
「飯沼殿、待っておりました。仁太さんが聞いておられた柳町の「みよ志」のお内儀のことで、この四方が子細を知っているらしいので」
「いや、知っているというほどの事ではないのですが、玄琢先生の所へ時々みえるお内儀で、もともと心の臓がよくないとの先生の看立てでした」
「それでは、お内儀はやはり心の臓がいけなくなって亡くなったと?」
「それが、みよ志のご亭主が来られて、妻女が明け方身罷ったと。先生がすぐ伺おうとしたのですが、それには及ばない、もう寺の方に運んだと……先生も首を傾げられたが、それ以上は何もされなかった、というより出来なかったのですよ」
「何か不審なことでもあるのですか」
亮之進は道斎に向き直った。
「いや、実は湯島の水菓子屋で首縊りがありましてね、その仏を検めたのですが、どうもその仏の綺麗さが解せないのですよ」
「綺麗さ?」
「安らかというか、苦しんだあとがないというか。首縊りの仏は皆、むごい有様ですが、あの仏にはそれがない」
「ほう!安らかな……覚悟を決めた自死だからでしょうか」
「まあ、それもあるでしょうが、何かどうにも腑に落ちない、本当に首縊りなのかと合点がいかないのです」
「その首縊りとみよ志のお内儀が、何か繋がっているといわれるのか」
亮之進と鞆哉は顔を見合わせた。
みよ志の内儀の事で、何かわかるようならまた知らせると言い置いて、四方鞆哉は帰っていった。道斎は夜の見回りにつく。
流行り病はようやく下火になったが、それでもまだ常に比べると入所の患者は多い。見回りには細心の注意が必要であるため、限られた医師のみが行うよう亮之進は取り計らっていた。他の患者に病が及ぶことのないように、町医者として常に患者を多く診る医者には、養生所への出入りを禁じたほどである。
道斎は「死人医者」といわれる身が役立つこともあるのだと、笑い話でおすがに話し、おすがを怒らせたのだが、この流行り病での立役者はまさに道斎と、養生所では皆がその医術の確かさを認めているのだ。
「さて……」
見回りを終え、診療部屋に戻ってきた道斎に、亮之進が切り出す。
「みよ志の内儀のことを、もう少し詳しく話していただけませんか」
道斎は兼増の手代の自死の理由が、今一つ釈然としないこと、覚悟の死であったとしても、どこか安らいだ表情なのが解せないことからして、何か他に理由があるのではと、漠然と考えていることなどをかいつまんで話した。
「心中の男と女なら、そういうことも考えられるのです。そういう仏を何度も見ました…もちろん当人同士はそれでよいでしょうが、心中はご法度。ましてや道ならぬ事となると、死なれた方も地獄です。隠したくなる気持ちも分らなくはないですがね」
「なるほど、それで同じ日に亡くなった内儀がかかわっていると?」
「二人になんらかの繋がりがあれば、それもあるのでは……まあ、まだあくまでも、そうではないかと考えているだけで、内儀が早々に荼毘に付されているので、確かめようもありませんがね」
「兼増の手代は確かに縊死なのですか。他に気になる所はなかったのですか」
亮之進は思わず身を乗り出した。
「梁に紐を括って、ぶら下がってはいたようです。紐の跡も耳へ向けてついてましたから。ただ、死んだ後に梁から吊るしたとしても、同じような跡がつくのではとも思うのですよ」
なるほど。と亮之進は頷き、少し考えていたが、
「もしも、その手代と内儀が繋がっているとしたら、飯沼殿はどうされるおつもりですか」と訊ねた。
道斎は一瞬言葉に詰まる。
「どうする……といわれましても……解せないことをそのままにして置けないのが、私の性分で、その後のことは考えてもおりません。まずはその謎を解きたいということですかな」
「そうですか、わかりました。こちらでも知っている人がいないか、探してみましょう。まあ、無理はなさらぬようにお願いしますよ。まだまだ養生所では飯沼殿の力が必要なのですから」
亮之進はそう言って少し笑った。
翌日中食に間に合うよう戻った道斎は、昼下がりの日差しを浴びながら微睡んでいる。奥の部屋から三味の音が聞こえる。若い娘が手解きを受けているらしく、おすがの唄う「黒髪」が耳に心地よい。その微睡みを仁太の声が遮った。
「先生、大変なことが分かりやした」
「おう、仁太。どうしたい」
「成吉もお絹も駒込の出らしいですぜ。それも同じ郷の出で、年も近いとくりゃあ、これは案外先生の見たて通りかも、と親分もいっておりやすよ」
「そうかい。駒込か……仁太、平蔵親分にすぐ行くからと伝えておいてくれ」
「わかりやした!」
道斎は十徳に手を通し、「ちょいと出かけてくるぜ」と奥のおすがに声をかける。
「あいよ、行っておいでな」一瞬おすがの唄は途切れたが、すぐに三味の音と共にまた流れ始めた。
平蔵がみよ志の内儀の幼馴染だという女に会ったのは、ちょっとした偶然だった。その女が懐の物を落したらしいと番所にやってきたのは、一周りほど前のことで、平蔵は失せ物はあきらめなよ、と言いながらも、無くしたものを一緒に探してやったのだ。女はおみちといい、柳町の裏店に住んでいるといった。あいにくその時には失せ物は見つからなかったが、
その失せ物というのが、みよ志の内儀お絹に貰った櫛だったと、今朝のこと番屋へ来て話したのだ。
「みよ志のお絹さんとは幼馴染で、ええ、私もお絹さんも百姓の出なのに、お絹さんはあの通り大店に……玉の輿だと羨んでいたんですがね」
おみちは無くなった櫛が一週間もたって出て来たと、わざわざ番所の平蔵に知らせにきたのだ。そして、おみちもお絹も、そして兼増の成吉もが同じ郷の出だということを、平蔵はおみちの話で知ったのである。
道斎が小石川下富坂に着いたのは日も暮れかけた頃だったが、ちょうど平蔵も戻ったところだという。
「みよ志の内儀と成吉につながりがあったのかい」
平蔵の顔を見るなり、道斎は切り出した。
「へえ繋がりやした。二人は郷では顔見知りだったらしいですぜ」
道斎はふっとため息を漏らした。
「そうけえ……繋がったか」
お絹と成吉は、同じ駒込吉祥寺裏の百姓家の出だという。お絹は「きい」成吉は「捨吉」という名で子供の頃を過ごし、それぞれにお店の奉公に上がったのが十と九つだった。
きいは十八の時見染められて、みよ志の主徳兵衛の後添えに迎えられたらしい。大店の内儀らしい名前をと、その時以来お絹と名を改められた。一方の捨吉は九つから兼増の丁稚として奉公し、手代となった年に成吉と名を改めていた。成吉が手代としてその名を名乗り始めたのは十九の時だ。二人の間に何らかの繋がり、それもかなり深い繋がりがあったとしても不思議はなかった。
「もう少し詳しくふたりの事を聞きたいが、おみちという女に話しを聞けないだろうか」
「先生のみたて通り、二人の死には何らかの事情があったと、あっしも察しますがね。もうそれを調べる手立てはありゃあしやせん。それでも、それを突き詰めてえと、先生は思いやすか」
道斎は驚いて平蔵を見た。
「少なくとも、お絹はみよ志の内儀として葬られたわけで、あっしはそれで良いように思いやすがね」
「確かにそうかもしれねえ……でもよ、それがお絹の本心だと思うかい」
平蔵は一瞬言葉に詰まる。
「成吉にしてもよ、首縊はご法度、それでも店では弔いを出すという。そりゃあそれ以上のことはないやな。でもよ、俺には二人がそれでいいと言っているように思えねえのよ」
「先生はどうなさりたいと……」
「俺はお奉行の指揮を仰ぐ身じゃねえし、親分のように十手を預かる身でもない。どうしようなんざ思っていねえよ。ただ、二人の本当の声が聞きてえだけなのよ」
平蔵は下を向き、少し考えていたが、「ようござんす、あっしの方からおみちに渡りをつけやしょう」と大きく頷いた。
その夜はまた一段と冷え込み、おすがは火鉢に炭を足し、炬燵にも炭を足した。
「今夜はやけに冷えるねえ、昼間とは大違いだ」
「ああ、おめえもこっちに来て入んな」
道斎はおすがを手招きし、炬燵布団の端を捲る。おすがは熱い茶を淹れて道斎の前に置き、「おお寒……」と言いながら道斎の向かい側に座った。
「お、壺最中じゃねえか」
「壺やのお嬢さんがお稽古を始めたのさ、嫁入りも近いのかねえ」
「ほう、それで黒髪かい」道斎は最中を頬張りながら笑う。
「三味の手解きは黒髪だよ、仕方ないだろ」
おすがもまた小さく笑った。
「黒髪……聞きてえな、ちょいと弾いてくんな」
「今かい。もう夜更けだよ」と言いながら、おすがは三味線を持ってきて、爪弾きで唄う。
黒髪の結ぼれたる思ひをば解けて寝た夜の枕こそひとり寝る夜の仇枕
おすがの声が艶っぽく流れ、夜は静かに更けていく。
「俺らもそろそろ、ふた親にならねえか」爪弾きの手を止めて、おすがは道斎を見た。
道斎の目は真直ぐにおすがを見つめていた。
「そんな、上手くいくもんかえ」
おすがは、わざと目を逸らせ、その目の端を人差し指でそっと拭った。
翌朝、道斎は番所へ出かけた。渡りをつけたおみちの所へ平蔵が案内してくれるという。おみちの裏店は柳町の伝通院裏門近くにあった。
「朝からすまねえな。この先生にお絹と成吉のことを、もう少し詳しく話してもらえねえかい」
平蔵はおみちに小声でそういうと、道斎を紹介した。
おみちはちらりと道斎を見て、頭を下げた。まだ小さな女の子が不思議そうに母と二人の客を見比べる。
「お嬢、いくつでえ」
「二つになったところです。ま、むさ苦しい所ですが、どうぞお上がりくださいな」
おみちは、特に嫌がる様子もなく、二人を中に招き入れた。狭い部屋は存外にきちんと片付いている。
「きいちゃんとあたしは同い年、捨吉さんはひとつ上で、あたしらいつも一緒に遊んだものですよ。小さい頃は自分の家が特に貧乏だなどと思いもせずに……でも、そのうち捨吉さんが奉公に出て、きいちゃんもその後にね。捨吉さんはふた親を相次いで亡くしたもんで、二人の妹はそれぞれ遠縁に引き取られたけれど、捨吉さんは九つで奉公に。きいちゃんは……まあ、口減らしですよ」
そう言って、おみちはふっと口をつぐんだ。
「ふたりはその後、こちらでも会っていたかい」道斎が訊ねる。
「さあ、どうでしょうねえ。きいちゃんとも捨吉さんともずっと会ってなくて、あたしがきいちゃんに会ったのは、ほんのひと月ほど前のことですよ。きいちゃんはすっかり綺麗な大店の女将さんで、あたし、まったく気づかなかった。きいちゃんの方から声をかけてくれて……ほら、この櫛を私だと思ってねと」
おみちは少し涙ぐんで、挿していた櫛を抜いて見せた。
「あの、落したといっていた櫛かい」
平蔵は櫛を手に取ってみた。なかなか手の込んだ細工の櫛だ。お絹はこれを形見分けのつもりでおみち残したのかもわからない。
「もう、あの時は生きた心地がしませんでしたよ。大切に懐に入れていたと思った櫛がないもんで、てっきり落としたか、摺られたかしたものと思い込んで……親分さんには、とんだ手間をかけちまって。申し訳のないことでした」
平蔵はおみちの淹れてくれた茶を一口飲んで、いやいや、とかぶりを振った。
「先生、ふたりが会っていたかどうかは、おみちさんにはわからねえらしい。どうでやしょうか、このくらいで」
「最後にひとつだけ、お絹さんは奉公前の成吉、いや捨吉さんと親しくはしていたのかい」
「そりゃね、きいちゃんは器量良しで、捨吉さんだけでなく、みなが一緒に遊びたがったものですよ。あ、そういえば、きいちゃんが奉公に上がる少し前だったか、藪入りで捨吉さんが帰ってきたことがありました。もう家も無くなってるのに……」
道斎は平蔵と顔を見合わせた。まだ十やそこらの子が、藪入りに帰る家もない在所に帰ってきた。それが哀れだった。
「藪入りか……なるほどな、帰る家が無くても、成吉にとっては故郷ってことか」
柳町から富坂までは真直ぐの道だ。源覚寺を過ぎたあたりで、道斎は歩みを止めた。
「親分、成吉の帰るところはお絹の所だったのかもしれねえな」
十と十一の子供に、恋心が芽生えてもおかしくはない。お絹の奉公が決まったと聞いた成吉が、藪入りにお絹の元に帰ったと考えると、合点がいく。
平蔵は同じように歩を止めて、「そうかもしれねえ」と頷いた。
夜は養生所からの呼び出しがあり、道斎はまた養生所に詰めた。気になる患者は五名だが、亮之進が診療のため留守にしている間、養生所を任せられたのだ。
捕物で出歩く道斎よりも、医師として養生所に詰める道斎を、どうやらおすがは好んでいるらしい。養生所の吾一が「おいで下さい」と伝えに来ると、おすがは吾一を中に招き入れて、最中をいくつか包んで渡した。
「寒い中ありがとね。帰ってお食べ」
そんな時、おすがは滅法界優しい女の顔をみせる。
「初瀬殿は、今夜はどちらの診療で?」
見回りが終って、道斎は雪乃に訊ねた。
「戻り橋長屋の又七さんのところです。ここのところの寒さで、ますます良くなくって、何とか持ち直されるとよいのですが」
雪乃は気がかりな様子でそう答えながら、道斎の指示にしたがって薬湯を調合している。薬湯を病人に与えて、雪乃たち女の仕事は終わる。入所しているすべての病人に薬湯を飲ませた後、下働きの二人は自分たちの部屋に戻り、雪乃もまた、何かあれば呼ぶようにと道斎に言い、自室に下がった。
診療部屋の隣は狭いが仮眠のとれる控え部屋になっており、今夜は水内禄郎という若い医師が詰めている。まだ医者になったばかりの、ふとした仕草に幼さの残る禄郎だが、この度の流行り病では大層な力となったと、亮之進も感心するほど腕が良い。道斎もまた、一緒に働いていて、爽やかな心持でいられるこの若者に、一目置いている。
気になる五人にも、特に目立った様子がなく、少し間をあけて見守ることにして、道斎は禄郎のいる控え部屋を覗いた。
「どうだい、仕事には慣れたかい」
「はい、ようやく……」
禄郎は書物から目を上げ、道斎に軽く頭を下げながらいう。もとより口数の少ない男である。特に会話もなく、部屋を出ようとした道斎に、禄郎が訊ねる。
「飯沼先生、五号のおまささんは、どうでしたか」
おまさは気になる患者の内、唯一の女の患者だ。もともと病弱であった上に流行り病を持ち、たちまち重篤な状態となった。今のところは何とか持ちこたえているが、時の問題だろうと道斎はみている。
「良くはない。あとどれほど持つか、だな」
「そうですか、母親と同じ年なので……どうも身につまされて」
禄郎は小さく頷いて、また書物に目を移した。
「何を読んでいる?」
「はい、『大和本草』です」
「水内殿らしい。母上はご健在か」
「健在です。百姓なので、畑のことしか知りませんぬが、薬草のことは私よりよく知っております」
「百姓……郷は?」
「駒込冨士前です」
「駒込か……そうか、どうやら俺は駒込に縁が深いらしい」
道斎は苦笑いを返しながら、つぶやいた。
「駒込に知人でもおられますか。あの辺りは百姓家が多く、周りは田畑ばかりで……御鷹匠のお屋敷の向かいにふた親が住んでおります」
禄郎は人懐こい目になって、道斎を見て言う。
「実は、駒込からこちらに来ておった、きいという女と、捨吉という男について調べているのだが、なかなか思うようにいかぬ」
「捕物がらみですか。きい?……そういえば、妹が小さい頃よく一緒にいた子がそういう名前だったような」
「妹御はいくつだい」
「二十一歳になります。妹のとしは、浅井長一郎殿の養女となり、そこから浅井長政殿へ嫁いでおります」
二十一というと、お絹と同じ年ごろだ。接点があってもおかしくない。
「水内殿は、きいのことを覚えておられぬか、捨吉は?」
禄郎は遠い目をして考えていたが、小さく頭を振った。
亮之進が戻ったのは、明け方近くなってのことだ。又七は辛うじて命を繋いだという。もう六十に手の届く年ではあるが、娘夫婦に手厚く介護されており、床擦れのひとつも出来ていないと、亮之進は嬉しそうに話す。
幸いなことに、五人の病人も特に問題はなく、夜を過ごすことができた。道斎はこれでお役御免ではあるのだが、禄郎と交代して、引き続いて養生所に残ることにしていた。
禄郎はこの秋の終わりに祝言を挙げたばかりで、あの堅物の禄郎が嫁を娶るとは、と医者仲間では不思議がられていたのだ。何にしても何日も嫁御を一人にしてはおれないと、道斎は禄郎との交代を申し出たのだ。
申し訳のなさそうな顔で礼を言い、禄郎は養生所を後にした。
朝の見回りを終え、薬草を調合している道斎に、雪乃が朝餉の支度ができたと声をかける。
内所では亮之進をはじめ、吾一、文吉も膳を前に座っていた。
「大したものはございませんが、どうぞ召し上がって下さいね。飯沼様がいて下さったので、本当に助かりました」
雪乃は心底からそう言ってくれる。道斎は笑って首を振りながら、亮之進の横に座った。朝餉は簡素ではあるが、心を尽くしたものだ。
「みよ志のお内儀さんの件は、どうなりましたか」
そういえば、と前置きして亮之進が訊ねる。
「いろいろと分かってきましたが、兼増の手代とみよ志のお内儀の仲については、幼馴染であること位で、確たるものは今のところ見つかりません」
「そうですか、四方もお内儀について、何かわかれば教えてくれるはずですが……」
「ただ、平蔵親分はそれがわかったところで、どうしたいのかというのですがね。もう弔いも終わっているのにいまさら、と機嫌が悪い」
「ははは、親分らしい」
亮之進は笑いながら、茶を飲み干した。
「水内殿の妹御が、もしかしたらみよ志のお内儀と知り合いかもわかりません。どうやら郷が同じ駒込で、きいという名に聞き覚えがあると言っておられたので」
「何と、世間は狭いものですね。ただ、水内殿は駒込の出ですが、家は広い農地を持ち、庄屋とのこと、みよ志のお内儀との繋がりがあるかどうか」
「庄屋ですか……」
禄郎は百姓といってはいたが、庄屋と小作の百姓では接点も怪しくなる。少しの糸口が消えてしまったようで、道斎は自然と無口になった。
その日夕刻、四方鞆哉が養生所へやってきたのと入れ替わりに、道斎は養生所をあとにした。鞆哉もやはりみよ志のお内儀のことを気にはかけているが、進展はないと申し訳なさそうに道斎に告げた。道斎も、これ以上きいと捨吉の繋がりをあきらかにする意味が本当にあるのかと、実のところ考えない訳ではなかった。だが、二人の死に様がどうしても頭から離れないのだ。せめて自分だけはあの二人の本当の気持ちを知ってやりたかった。きいは大店の内儀お絹として、捨吉は手代の成吉として葬られている。そうであっても検屍医の自分に見せた最後の成吉のあの顔は、本当のことを知って欲しいと訴えていた。それを見過ごせないのは道斎の性分であった。
「戻ったぜ」
「ご苦労さん」
一声かけて、上がり框に足を掛けた道斎に、応えておすがが奥から姿をみせる。
「おまえさんの留守に、駒込からお客があったえ」
道斎の着替えを手伝いながら、おすがはこともなげに言う。
「なに、駒込から?」
道斎が目を剥くのをみて、少し口元を歪めたおすがは、十徳を畳みながらもったいをつける。
「若いご新造さんだったえ。おまえに渡して欲しいとさ」
そういうとおすがは、袂から一通の文を出して道斎に手渡した。裏書に浅井としとあり、水内禄郎の妹だと思い付いた。
「養生所の水内殿の妹御だ、何か言っておったか」
「とくには……養生所に行けばと言ったんだがね、時間が無いようだった。ずいぶんときれえな人じゃないか」
道斎に会えないことを見越して、文をしたためたものか、はなから文だけ渡して帰るつもりだったのか、道斎ははやる思いでその文を開いた。文は二通、としが道斎に宛てたものと、きいがとしに宛てたものだ。
突然お許しくださいませ……としの文は美しい文字でしたためられている。そして駒込の富士前にいた頃、小作の子であったきいと捨吉と、幼いころ、親しくした仲であったと明かしてあった。
(兄より、きいさんと捨吉さんのことを飯沼様がお調べと知りました。二人には何のやましいところもございません。ただ、飯沼様には子細をわかっておいていただきたく、失礼を承知で筆をとりました)
きいと捨吉ととしの三人は、幼い時からいつも一緒に遊ぶ仲だったが、捨吉が九つで奉公に上がることになった。捨吉のふた親は相次いで亡くなり、一人になった捨吉を丁稚として引き取ったのが、兼増である。初めての藪入りで、駒込に戻った捨吉を、女中に頼み込んで家に泊めたのは、としだという。二年後にはきいが駒込を出た。行先は吉原の中見世で、奉公というのは名ばかりで、十歳のきいは仕込みとして売られたのだ。きいとの連絡はその後取れず、次にきいと会ったのは、八年後の秋で、きいは大店のみよ志の主に身請けされたことを、としに話したという。としもちょうど同じころ、浅井家の養女となり、その家の次男と祝言を挙げることになっていた。吉原を出たきいは、名を絹と改めて、みよ志の主の妾となったのだ。それからのことは、きいがとしに宛てた文により明らかになった。
「二人はやっぱり深い仲だったのかえ」
文を読み終えた道斎に、おすがが声をかける。
「ああ、深い仲というのもちょっと違うようだが、二人の思いは、痛い程わかったぜ」
きいがとしに宛てた文には、自分の命がもう長くないこと、みよ志の主に囲われてすぐに、捨吉と再会したこと、その思いは幼いころの淡い思いのままで、それでもそれがどれだけ支えになったかなどが綴られている。
一年半前にみよ志の女将として後添えに入ってからは、きいは捨吉に会わなかった。会わなくても、捨吉の存在そのものが、きいには心の拠り所だったのだ。「捨さんを間男になんてしたくないから」きいのその言葉は捨吉への思いにあふれている。結局みよ志の女将になって、わずか一年できいは病に倒れ、文を書いた頃には、起き上がることさえできなくなったようだ。
旦那がいながら、捨さんへの思いを消せない自分への罰だと、きいは書いている。
病に倒れて数か月して、たった一度だけきいは捨吉に会っている。その日は気分が良く、主の許しを得て傳通院まで出掛けた際で、それはまったくの偶然だった。捨吉は手代になったことを話し、きいは自分が病で長くないことを話してしまったという。きいは幼いころと同じように、自分の胸にある死への恐怖を捨吉にぶつけたのだ。それを聞いた捨吉は「お前が死んだら、俺も一緒に行ってやる」と言ったというのだ。その時の勢いでそういったものとは思うが、捨吉はあの通り実直な人だから、自分が死んだ後を追うことのないように、どうかくれぐれも気にかけてほしい。きいの文はそう結ばれていた。
としが道斎に宛てた手紙の最後は、きいの遺志を守れなかったことへの後悔が綴られていた。まさか、幼い頃の思いだけで、捨吉が命を絶つとは思ってもいなかった。きいの死をどうやって捨吉が知ったのかはわからないが、迂闊であったと、その文はとしの自責の思いが強く感じられるものだった。
「なあ、小せえ頃の情ってやつが、何年たっても変わらねえなんざ、信じられるかい」
「小さい時……初めての恋ってことだろ。お前さんも無粋だねぇ。恋なんざ穢れる前の純な思いの方がずっと強いのさ」
おすがはそういうと、厨に消えた。
きいと傳通院で再会した後、捨吉は兼増の主に、祝言の約束を交わした女がいると告げ、湯島に長屋を借りる手筈を整えてもらった。相手のことをしつこく問われて、おみつだと言ってしまったものだろうか。きいの命が長らえたなら、ほんの一時でもその長屋に、と考えたのかもわからない。日々捨吉はきいを案じ、みよ志の様子を探っていたのだろう。そしてあの日、きいの死を確信したのだ。まだ家移りもしていなかった捨吉が、最後の場所として選べるのは、長年奉公してきた店でしかなかったのか……
「いや……待てよ」道斎はつぶやいた。
「おい、ちょいと下富坂までいってくるぜ」
厨に向かって声をかけて、おすがの返事を待つまもなく飛び出した道斎は、師走の夜の道を走った。
小石川下富坂では、平蔵は夕餉を済ませて寛いでいるところだった。
「先生、どうなさいやした」
驚いて表戸を開けながら、平蔵は怪訝そうに道斎を迎え入れた。
お勝が熱い茶を淹れてくれ、道斎はようやく人心地ついたように、平蔵にとしからの文を手渡した。
「なるほど……やっぱりこういうことでやしたか。それにしてもこんなことがあるんですかね。あっしにはとんと解せやせんや」
「親分、どう思う?この成吉の死に様を」
「どう思う……先生はまだ何かあると?」
「悪いが、みよ志の主を呼び出してもらえねえかい」
「みよ志の?」
「ああ、主にどうしても確かめてえことがあるのよ、店じゃ主も話し難かろうよ」
「わかりやした。主に番所までくるように申しやしょう」
少し考えた後、平蔵はきっぱりと顔を上げて言った。
三善徳兵衛は渋い顔で座っている。平蔵に呼び出されて渋々同行したのだろう。道斎の顔を見て、一瞬険しい顔をしたが、すぐ目を逸らせた。
「ご足労をお掛けしました。ご亭主にどうしても聞きたいことがあったもので……」
徳兵衛の前に座って道斎は真直ぐに顔を見て言う。
「お内儀は成吉と一緒に死んでいたんじゃないのですか」
「何をばかなことを!お絹は心の病で身罷ったのですぞ、言いがかりは止めて下さい。あまりおかしなことをいうと、こちらも黙っておりませんよ」
徳兵衛は怒りに顔を赤らめて詰め寄る。
「言いがかりを付けようってんじゃねえんだ。お内儀は確かに病だったろうが、傍に成吉も死んでいたんじゃねえのかい。俺はそれが知りてえのよ」
道斎は徳兵衛から目を離さず凄んだ。徳兵衛は一瞬怯んだが、衿を少し正して座り直した。
「そんな……ばかばかしい。その男がお絹と死んでいたという証拠でも?」
「証拠は無いが、根拠はあるぜ」
道斎はとしに宛てたきいの文を徳兵衛に手渡す。
読み終えた徳兵衛はしばらく唇を噛んで押し黙っていたが、やがて目を上げて道斎を見た。
「これが、お絹の本心だったのですか。私はお絹を疑っておりました、今の今まで……お絹は確かに私が身請けした女ですが、心の有る優しい女で私は迷わず後添えにしたのです。それでもお絹にはどこか相寄れない何かがあると、時々そう思うことが……」
徳兵衛はもう一度道斎を見て言った。
「おっしゃる通りです。夜中にお絹は息をひきとったようでしたが、傍らに男が死んでいました。何処からお絹の部屋に入ったものか、私も気付かないうちに……」
男が兼増の手代だと、住み込みの丁稚が知っていた。夜が明ける前に荷を運ぶ車で兼増へ成吉は運ばれたのだ。
木戸は急ぎの荷を届けると言って潜り抜けた。最も主自ら籠で荷の後を追い、木戸番に多分な金子を握らせたのだろう。
明け方に兼増に着き、主に事を告げた。手代が間男をしたとあってはお店にとっては大きな損失だと主の兼谷舛衛門は考えたことだろう。
「それで兼増では成吉にあんな細工を……」
「私はてっきりお絹があの男と……と」
「成吉は首を括られる時にはもう死んでいたんだな、何故よ、どうやって死んだというんでぇ」
今度は平蔵が目を剥いて徳兵衛に詰め寄ったが、徳兵衛は首を振るばかりだ。
「親分、それは今となっては分からねえよ、おそらく何か毒になるものを飲んだんだろうが、成吉の身体にはその兆候もなかったんだぜ」
「先生……それなら何で今更」
「ご亭主、済まなかったな。さっきも言った通り俺は成吉とお絹……いやきいの本当の死に様を知ってやりてえと思ったまでで、二人はもう荼毘にふされていて調べようはねえや。でもよ、二人にはやましい所は無かったと、それはいえるんじゃねえのかい。成吉は子どもの頃と同じようにきいを守りたかったのよ。一緒に行ってやると言った言葉を守りたかったのよ」
徳兵衛は咽んだ。
「何と、そんなことがあったのですか。それでみよ志と兼増にお咎めは?」
養生所では初瀬亮之進が縁側で平蔵と話している。
「それが、先生があっしに任せると言うんで」
「ほう……で?」
「二人とももう荼毘にふされているし、どうしようもありませんや。深見の旦那も今となってはどうすることもできないと」
「でも、お二人はきっと喜んでいるのではないですか」
茶を運んできた雪乃がいう。
「そうですかね、あっしには死んだら同じと思えますがね。でもまあ飯沼様の執念には驚きまさぁ」
平蔵は茶を一口啜って笑った。
「飯沼様はどこまでも死人の気持に寄り添いたいのでしょう。心底優しい方なのですよ」
雪乃の言葉に微笑みながら亮之進も肯く。
夕刻とはいえすでに闇が深くなった菊坂町では、道斎が微睡んでいた。二人の死に様を聞いたおすがは「そうかえ」と言っただけだ。
「俺は驚いたぜ、成吉の思いは……あの強さはどこから来ているのかとよ、きいとも深い仲になった訳じゃねえ、ましてきいはみよ志の後添いだぜ」
「晦日の月……ってかい」
「晦日の月?」
「ありえないってことさ、でも女郎にも誠はあるもんさね」
(女郎の誠と玉子の四角あれば晦日に月が出るしょんがいな)
おすがの弾き唄う三味の音が微睡みの中に聞こえてきた。 了

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