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おろく先生走る~月おぼろ~

  • sakae23
  • 6月30日
  • 読了時間: 39分

更新日:1 日前

「先生、土佐が上がりやした」

表戸を開けながら仁太が叫ぶ。

「おう!すぐ行くぜ、場所はどこでえ」

仁太の答えを待たずに道斎は走る。

「先生、立慶橋ですぜ」

後ろから仁太が追う。通りすがりの男と女が一瞬立ち止まりその姿をあきれ顔で見送った。

金杉水道町の六兵衛店から立慶橋までは少しある。仁太は何も走る事はないと思うのだ。だが道斎はいつも全力で走る。

飯沼道斎はれきとした旗本の出だが、飯沼の家は長兄の斗馬が跡目を継いでいる。次兄の嗣綱は武道に長け、格上旗本大久保家の養子となった。道斎は三男で三男の憂き目を嫌というほど思い知らされてきたのだ。道斎が医師の道を志したのは飯沼の家を出る為であり、道斎にすれば医師であろうが祈祷師であろうが飯沼の家から離れる為なら何でもよかったのである。そういう埒も無い理由で道綱という名を捨てて道斎は医師となったのだ。

 立慶橋の上は遠巻きに人だかりがしており、骸には筵がかけてあった。

「先生ご足労をかけやす。こりゃ身投げですな……若い娘が酷えもんでえ」

平蔵が筵を捲ってみせる。仁太は思わず顔をそむけたが、道斎は反対に顔を近づけてあちらこちらを探る。女はまだ若い、腹の膨れ具合から一晩は水に浸かっていたと見立てた。流されて来たのだろうか、その割に着物ははぎ取られていない。

「おや先生、相変わらずお早い。どれ……女か……なんとも酷いことだ」

道斎に少し遅れて同心の深見堅吾がやってくる。同心の中には医学の心得のある者もいて、そういった同心は自分で検屍を行うが、深見は「餅は餅屋よ」といつも道斎に検屍を頼んでいるのだ。

「で、やっぱり身投げですかな」

「他に死に至るような傷もないし、突き落とされたか自分で身を投げたか……そこのところが気にはなりますがね」

「身元がはっきりすれば、訳はいくらか見えてくるだろう。ご苦労でしたな。おい!平蔵、仏を番屋に運んでやんな」

特に不審なところが無ければ道斎の役目はそれで終了である。仏が番屋に運ばれれば人だかりも散り、人々は何もなかったかのように往来を行き来し始める。

道斎は来るときとは別人のようにゆるゆると歩き六兵衛店に戻る。

「おや、おろく先生。早々のお役御免かい」

隣のおまさである。道斎はちらりとおまさを見て「はあ」と気の無い返事を返して表戸を開けた。仁太の声が大きいため土佐衛門が上ったのは店中の者に知れたことだろう。十徳を脱ぎながら、道斎は「やれやれ」と独り言ちた。

道斎は医者であり当然ながら患者を診る。自分ではもちろんそれが本来の役目だと思っているのだ。貧乏医者だが腕には自信がある。裏店に住む者たちにとっても道斎はありがたい医者であり、命を助けられた者も少なくない。誰もが道斎を頼りにしてはいるのだ。

ただ貧乏裏店では患者も貧乏、道斎はほとんど無償で治療をする羽目に陥った。その為にいつまでたっても貧乏医者のままである。深見が検屍役を頼んできた時、一も二もなく引き受けたのにはそういった事情もあったのだ。「おろく医者」か……道斎はまた呟く。

おまさだけでなく、六兵衛店の者は皆道斎を「おろく先生」と呼ぶ。死人を診る医者だというのだ。裏店の連中がそう呼ぶのは悪気ではないと分かっている。それで道斎も否定するでもなくその呼び名に甘んじているのである。

「おろく先生、朝餉は済んだのかい」

今度は向いのおせんである。おせんは小芋の煮転がしを大ぶりの鉢に入れて持ってきてくれたのだ。

「屑の芋だけどね、この前お世話になっちゃったお礼。こんなんじゃいけないんだけれど」

「あれからお吉はどうだい」

「もうすっかり。本当に頭が上がらないよ、おろく先生には」

道斎は「それはよかった」と頷き鉢を受け取った。小さな芋からはまだ湯気が立っている。おせんは表通りの居見世の下働きに行っている。それで屑菜などを貰ってくると話していたので小芋もその類だろう。

おせんの亭主は作三という建具師だったが2年前に事故で亡くなっており、七歳を頭に三人の子を女手で育てている。歳の頃なら道斎よりも二つ三つ若いのではと思うが良く働く、気立ての良い女である。道斎はおせんを見ると少しばかり胸がざわつく。それはおせんが

似ているからだと気付いてはいるが、似ていると思う自分の目を笑い飛ばしたくなるほど

突拍子もないことではある。

「少しは休みなよ、子供らの為にな」

「あい、ありがと」

おせんはにっと笑って帰っていった。

さて……と、道斎は朝餉の支度にとりかかる。とはいっても冷や飯に沸かした湯を掛けただけの簡素さである。これに小芋の煮転がしはありがたかった。湯漬けの飯を掻きこみ、

小芋を二つ三つ口に放り込んで、「よし」と十徳を手に取った。行先は決まっていないが、道斎の足は自然に本所の方に向かっていた。

 本所深川ではひと月程前にちょっとした事件があった。本所は道斎の店とは少し場所が離れてはいたが、当番であった深見が関わったため道斎に声がかかったのだ。

事件といっても芸者と若い衆の心中で、それ自体はすぐにけりのつくものだった。道斎が

駆けつけた時置屋の部屋は血の海で、その中に男女の骸が折り重なっていた。深見が一応の検屍を行っており、「こりゃあ心中だな」と道斎に呟いた。道斎は二人を引き離し傷口を視る。匕首を握っているのは男の方で、女を刺した後自死したと見える。二人の左手は腰紐で結ばれ、その顔は信じがたい程安らかで道斎を驚かせた。

「先生、間違いないですな……酷いが相対死はご法度、主に会って来るとしよう。平蔵、仏を運んでやんな」

深見は気の進まない様子で奥に消えた。平蔵は「へい」と応えて、外で控える男衆に戸板を持って来るよう伝えた。誰しもが重苦しい気持ちでいた。戸板に乗せられた女の着物の裾がはらりと乱れた時、一人の女がその裾を素早く直し「吉哉……」と初めて咽んだ。

「何も死ぬことはないじゃないか」

その女はそう呟き、冷ややかに道斎を見た。

 それが染哉との出会いだった。門前仲町の福久は深川でも名のある置屋で、主は深見に事のもみ消しを願い出た。相対死などと悪評が立つと商いに障りがあると泣き付かれ、深見は相対死とは届出ず、二人は無縁仏となる事を免れた。

吉哉が置屋にやってきたのは心中の五年前だ。十四になったばかりの田舎娘だった吉哉を、妹のように何かと面倒をみて一端の深川芸者に育てたのが染哉だった。吉哉もそんな染哉を実の姉のように慕っていたという。心中の片割れの正次は同じ置屋に身を置く男衆で、お座敷に出る芸者の身支度をしている内に吉哉と懇ろになったのだろう。芸は売っても色は売らない深川芸者にとって、まして男衆との色事はご法度と知った上での色恋である。叶えられるはずもなく正次は置屋を追われたのだ。それ以来吉哉は塞ぐ事が多くなり、三味線の稽古にも舞いの稽古にも身の入らない日々が続き、置屋の女将に折檻を受けるのも二度三度ではなかった。染哉は辛抱すれば、きっと添える日が来ると吉哉を諭したが、染哉の言葉も吉哉には届かなかった。二人は置屋で事に及んだ。道斎はその時見た染哉の冷ややかな目を忘れられなかった。妹とも思う吉哉の死が悲しくないはずはなかろう。だが染哉は唇を噛んで二つの骸を見送り、血に染まった畳を無言で拭き清めていた。主が急ぎ頼んだ建具屋がその畳を運び出し、新しい畳を入れるまで、道斎はその場を離れられなかった。その時の染哉の化粧気のない横顔はおせんに似ていると道斎は唐突にそんなことなどを考えていた。染哉の全身からは芸者としての矜持よりも頼りない弱さが溢れていて、助けを求めているような気がしてならなかった。

 その染哉のことが気掛かりで、道斎は幾度か深川に出向いた。何事もなかったかのように芸者達は座敷に出て、酔客を相手に芸を売る。道斎は置屋から出る女達をただ見ていた。自分でも何をしていると呆れもするが、女達の中に染哉を探していた。あの日以来染哉は座敷に出ていないようだ。染哉はどうしたのだろうか。置屋に直接訊ねれば済むはずなのに、何故かそれが出来なかった。そういう訳で今日も道斎の足は自然に深川に向いているのだ。

「先生、深見の旦那が呼んでいやす」

裏通りを抜けたあたりで仁太に呼び止められた。

「今朝の身投げの事か」

「いや……とにかく先生に来てもらえと」

「番屋か」

「深見の旦那の屋敷の方で」

「わかった」

深見の家があるのは小石川片町で、飯沼の家と目と鼻の先である。めったに近寄る事のない町ではあるが、道斎にとってやはり懐かしい場所である。伝通院の中を通って裏門を抜けて少し歩くと片町だ。飯沼の母は達者だろうか、ふと立ち寄りたい気持ちに襲われる。

深見の家に着くと深見は庭の手入をしているところだった。

「これは先生、足労かけてすまねぇ」

深見は妻のしおりに茶を持ってくるように言い、座敷へ招き入れた。

「今朝の身投げの件はどうでしたか」

「ああ、あれはやはり自死だったぜ。身元もすぐに……親御から番所に申し出があったもので、どうやら数日塞いでおったらしく気を付けてはいたらしいが」

「そうでしたか。それにしても死ぬことはないだろうに」

しおりが茶を運んできて、深見も道斎も口をつぐんだ。

「飯沼様、たまにはお屋敷の方にお帰りになればよろしいのに、お母上様が心配しておられますよ」

しおりと道斎の母紗枝は親しくしているらしく、深見にも時々飯沼の家に帰るように言われることがある。わかってはいるのだが、今の自分がどの顔で母に会えるというのかと、道斎はその都度曖昧に笑って誤魔化すのだ。

「いつまでも達者でいる訳ではありませんからね、親というものは」

しおりはそう言い置いて部屋を出る。深見はやれやれという風にため息をついて、道斎は苦笑いを返した。

「あの深川の一件だが」

茶を一口啜って深見が言う。道斎は深見を見つめた。

「置屋の主に相対死では外聞が悪いと泣き付かれてな、曖昧なまま仏さんは葬られたのだが……」

「何か事が起きましたか」

「あの碧渕殿が、物申してきた」

深見は首を竦めて、またため息をついた。碧渕采視は深見と同じ同心だが、何しろ無類の堅物である。道斎もそのことはうすうす知ってはいる。

「そうですか……で、何と」

「先生の検屍の内容を聞きたいらしい」

「はあ……」

「今日夕刻、先生に番所まで行って貰いてぇのよ」

なるほどと頷きながら、道斎も困ってしまった。あれは紛れもない心中であり、どう取り繕うことができるか考えを巡らせる。

「それでだ。あの時二人を見つけた芸者、染哉にも番所に来るように伝えている」

「染哉をですか」

「実はな、二人の心中を公にしないことを願い出たのは染哉の方で、まあ主にとっても外聞が悪いことはその通りだが、置屋を刃傷の場に選んだ二人をどうにも許せない、戒めとして罰を与えて欲しいというのがもともとの考えだ。それがよ、染哉が切り札を使ったのよ」

「切り札?」

「あの染哉は芸者達の中でも身持ちが堅くてよ、芸は売るが色は売らねぇ。深川芸者きっての売れっ子なのはその気風の良さの所為だっていうぜ」

その染哉が大店の益田屋に身請けされるという。

「染哉は吉哉の相対死をもみ消してえと、断り続けたその話を飲む代りに、主から俺に頼んで欲しいと願い出たのよ」

「益田屋に……」

益田屋といえば浅草一の乾物問屋で、道斎ももちろんその名を知っている。あれ以来染哉が姿を見せないのはそういう事だったのか。

「俺もよ、仏心が出たって訳よ」

道斎は小さく頷く。

「あの件は病死で片付けてえ、男は居なかった。病死だ」

置屋の連中や近所へも染哉が手抜かりなく話を合わすよう頼んでいると深見は言う。

「言っておくが、金で動いちゃいねえよ。俺はそういうことは性分に合わねえ」

近頃同心の中に金で悪事を目溢しする者がいるのだ。道斎は平蔵がぼやいているのを聞いたことがあった。

「うちの旦那にも金を掴まそうとする奴がいてよ、まったく困ったもんだぜ」

もとより曲がったことの嫌いな深見だが、人情にはもっぱら弱い。吉哉の一件は金がらみでは無いことは道斎は百も承知である。

「わかりました。何とか碧渕殿に納得してもらうよう話してみましょう」

「すまねぇが、よろしく頼む。恩に着るぜ」

 気は重かったが、染哉に会えると思うと道斎の足取りは自然と軽くなった。番所に着くとすでに碧渕は平蔵と話していた。

「先生、ご足労お掛けしやす」

平蔵が道斎に声をかけ、碧渕に引き合わせた。

「飯沼殿……お父上は飯沼一馬殿か?」

「はい、父をご存知でしょうか」

「よっく存じ上げておる。兄上殿のことも」

だからどうした、と言いたいがそれが碧渕なのだ。道斎が最も苦手とする手合いの男である。

「飯沼殿が深川の芸者をみたてられたか。あの女の事はいろいろと噂もあってな」

「噂……でございますか」

「単刀直入に聞こう、あれは相対死にだったのではないか」

「いえ、病死でした」

「病死……何の病だ」

「私が診たときにはすでにこと切れておりました」

「嘘はご法度と知っておろう」

「間違いはございません」

ぎろりと道斎を見る碧渕の目を真直ぐに見て道斎は答えた。

「実はあの後で男が一人死んでおる。あれも飯沼殿の見立てか」

「いえ、あの男は深見の旦那がみたてやした。あれは行き倒れでさあ」

平蔵が即座に答える。

その時仁太が染哉を伴ってやってきた。

「姐さん、悪いな。ちょいとこちらの旦那が聞きてえことがおありとのことだ。嘘偽りのないように話してくんな」

「お前は?」

「福久の染哉と申します」

「お前が染哉か……おい、正直に申せ。女は相対死にだったのであろう。男と死んでおったのだろう。調べはもうついているのだ」

「旦那、おかしなことをおっしゃいますね。そちらのお医者の旦那の見立てでは、吉哉は心の臓が急に止まったのだろうとのことだったではないですか」

「相対死にだったと注進した者がおる」

「おや……そんなばかばかしいことを誰が。吉哉は福久の主の菩提寺に葬られておりますよ、何なら掘り起こしてみましょうか」

染哉は凛として言い放った。碧渕は少したじろぎ言葉に詰まった。

「菩提寺は法禅寺だ、掘り起こすならあたしが立ち会いますよ。今からでもかまやしない、

すぐにご住職に申し出ましょう」

「法禅寺……いや、ちょっと待て。あの飯沼一馬殿の子息なら偽りの見立てはなさるまい。

病死というならそういうことにしておこう。いや……そうなのだろう」

道斎は努めて重々しく碧渕に向き合い言った。

「碧渕殿、深見殿は小石川でも日頃から皆の信頼を集めておいでです。それを、今更このようなご審議、深見殿にも失礼かと……」

「なに?私に説教するか」

「いや、そのようなことは決して」

「おい、女……染哉だったな、名はしっかと覚えておくぞ」

碧渕は渋い顔で染哉を睨み、番所の戸を閉めた。

「法禅寺が菩提寺とは、本当かい」

道斎の問いに、染哉はふっと笑った。存外幼さの残る笑顔だ。

「触頭の法禅寺じゃあ、碧渕様も手が出せねえや」

平蔵が恐れ入った様子で染哉を見る。

道斎は断る染哉を福久へ送ることにして番所を出た。

「碧渕殿が墓を暴くと言ったら、どうするつもりだった」

染哉は一瞬歩みを止めたが何も答えずまた歩きはじめる。

染哉に合わせてゆっくりと歩きながら、道斎は少し前を歩く染哉の背中を見ていた。

「碧渕殿はなかなか手強いお方だ。これからもどんなことをいってくるか……無茶はいけねえよ」

「心配はご無用だよ、その時はその時さ」

染哉は背中を向けたままでいう。そのはすっぱな物言いは道斎を突っぱねる気迫が籠っていた。

福久に着き、表戸から消える染哉を見送っても道斎はしばらくその場に佇んでいたが、意を決したようにまた歩き始めた。

明日にしようかとも考えたが、足は小石川片町に向っていた。門前で事の成行きだけを深見に伝えよう……早い方が良い。深見の家に着いたのはもう夜も深くなった頃だった。

幸いまだ深見は休んでおらず、門前で成行きだけを、という道斎をしおりは中に招き入れた。

「深見もこれから夕餉なのですよ。今日は役目で帰りが遅うございました」

深見も嬉しそうに道斎を迎える。

「夕餉とあれば尚更何とも間の悪いことで、すぐにいとまいたします」

「とんでもない、こちらの頼み事だ。ささ、大したものは無いが一緒に一杯やってくんな」

深見には男子がいない。娘のあかりは二年前に同じ同心に嫁いでいる。下の娘はなゑはまだ十三歳だ。深見にとって道斎は時に酒を酌み交わしたい息子のような存在でもあるのだろう。

道斎にしても深見といると心底落ち着くのだ。飯沼の家では父や兄達とこのように寛ぐことは無かった。自分が飯沼の家に帰ることをためらうのは、深見といる時のような穏やかな気持ちが持てないからだ、と道斎は思う。

「そうか……碧渕殿の顔が目に浮かぶようだな」

深見は道斎の話を聞き頷いた。

「それにしても、染哉という女はたいしたもんだ、碧渕殿を前にしても怖気づかねえとは」

「はあ、面白い女です」

「面白い?」

「男はみな敵と思っておるのか……私など目の端にも無いというか……」

「ほう」

深見は愉快そうに笑って酒を飲み干し道斎を見る。道斎は少し気まずく目を逸らした。

泊まっていけという深見に礼を言い、道斎が六兵衛店に戻ったのは町木戸の閉まる少し前だった。

敷いたままの夜具に潜り込んだが、なかなか寝付けない。目を閉じると染哉の顔が浮かんでくる。何故あの女がこれほど気になるのだ……最初に見かけた時からどうにも気にかかって落ち着かない。確かに美しい女ではあるが、それだけではないと道斎は思うのだ。あの女には自分とどこか通じるところがあるような気がする。それが何かはわからないまま道斎は漸く浅い眠りに落ちた。

「おろく先生」

外で声がする。道斎はゆるゆると起き表戸を開けた。

「おさえ、どうした?」

「先生、おっかさんが……」

おさえはおせんの一番上の娘だ。道斎はすぐにおせんの家に駆けこんだ。

おせんは土間にうずくまっている。道斎は静かにおせんを抱きかかえて寝かせ、脈を取り

「おせんさん」と呼びかけた。おせんはうっすらと目をあける。

泣いている子供たちに道斎は「大丈夫だよ」と言い、おせんの心の臓の音を確かめ、手足の反応を診た。

少しするとおせんの頬に赤みが戻ってきた。ただ、まだはっきりと意識は戻っておらず、道斎は子ども達におっかさんには自分がついているから、安心してもう少し眠るように伝えた。夜が明けようとしていた。

まもなくおせんは目を開け、道斎は大きく頷く。

「疲れが出たのだろう、少しゆっくりと休むことだ」

「先生……」

おせんの目から涙が溢れる。

病人の心細さが道斎にはよくわかる。自分が倒れてしまってはたちまち暮しが成り立たない。まだ若いおせんの細い肩に三人の子供の暮らしがかかっているのだ。おせんはどこか染哉に似ている……おせんの寝顔を見ながら、道斎はそんなことを考えている自分を少し恥じた。

 夜が明ける頃には、おせんの顔色は良くなり、おせんはもう大丈夫だと言い張った。

「先生、迷惑かけちゃって……本当に悪かったね。もう大丈夫だから」

おせんはきまり悪そうにそう言って床を出る。子供達も起きてきて母を囲んだ。道斎はくれぐれも無理はしないようにといい置き表戸を開けた。

「先生、ありがとう」

表に出た道斎を追いかけて、おさえが礼をいう。

「おさえ、おっかさんはお前がしっかり助けてやれよ」

無理をするなと言ったところで、おせんは今日も居見世の下働きを休むことはないだろう。道斎はどうすることもできない無力さを感じるが、それ以上はまた自分の踏み込んではいけない事なのだと納得する外なかった。

 少し休もうと寝床に入っても頭が冴えて眠れなかった。あのおせんの寝顔がどうしても頭から離れない。ずっと昔に同じようなことがあった……ふいにそれを思い出し道斎は飛び起きた。

あれはまだ十やそこらの子供の頃のことだ。道斎の家は片町でも伝通院寄りの源覚寺にほど近い所にある。その一帯には裏長屋がいくつもあった。その中の一つにその一家は住んでいた。あれは年も暮れようとしていた頃だったろうか。何の咎があってか父親が縄付きとなった。道斎はちょうどそこに出くわしたのだ。引きずられるように連れていかれる父親に縋りつく女と子供。

「俺は何もしちゃあいねえ、何かの間違いだ」

父親は大声でそう言ったが、「だまりやがれ」と十手持ちに張り倒され、引っ立てられたのだ。

母親は病を持っているらしく、青白い顔をして崩れ落ちた。子供は女児でその母親を抱えようとしたが、その場から立ち上がれずにいた。道斎は急いでその片方を支え家の中に入るのを手伝ったのだ。

それだけのことだった。だが、その時の親子のことは強烈に道斎の胸に残り、何年も離れることは無かったのだ。道斎は母にあの一家のことを尋ねたことがあった。

「悪人は捕らわれるのが当然のことです。その家の者たちも同罪となりましょう」

「何故でございますか。父親は何もしていないと申しておりました。それに、何故家人も同罪なのですか」

母は曖昧に答え、その一家に関わりを持たぬようにと、強く道斎に言ったものだ。道斎はそれに逆らい、何度かその家に行ってみたが表戸を開けることを躊躇った。

あの時の母親の顔だ。おせんを見る度に似ていると感じたのは、あの母親の顔だったのだ。

「あの子供の目」

母親の顔を思い出すと共に、道斎の胸に大きくよみがえったのは、あの時の女児の目だった。そしてその目は紛れもなく、あの染哉の目であった。胸の中のもやもやした思いが、

一気に晴れていく。染哉を始めてみた時から何故か気になった。それはあの時の女児のあの目と同じ目を染哉の中に見たからだ。道斎はすっかり明けた表通りへ飛び出し、下富坂の平蔵の家を目指して走った。

 平蔵はちょうど出かけようとしている所だ。

「先生、どうしやすったね」

「親分に聞きたいことがあって、随分昔のことだが覚えていないだろうか、小石川片町の裏店から出た繩付きの男のことを」

「片町の……」

「もう十四、五年も前のことなんだが」

「十四、五年前ですかい。ちょうど深見の旦那の下で動き始めたころのことでやすね」

平蔵が岡っ引きとして深見の屋敷に出入りするようになって十五年が経つ。

「そういえば、深見の旦那の屋敷近くでそんなことがあったような……それがどうしなすったんで」

「あの染哉という女が関わっちゃあいないか、調べたいのよ」

 道斎には染哉があの時の女児だという確信があった。そうでなければあれ程胸が騒ぐことはない。あの後一家にどのようなことが起こったのか、容易に想像できる。だが、たとえ染哉があの女児であったとして、今更どうするというのだ。それでも道斎は知りたかった。あの女児がどう生きていったのか、そしてそれがあの染哉だとしたら、これは運命だと思うのだ。道斎は平蔵に当時のことを知る者にその後を訊ねるように頼み、自分も片町を目指して走った。


 あの医者があの時の子だとすぐにわかった。おすがは、さだめとか運だとかそんなものはとうに捨てていた。昔のことも先のこともどうでも良い、今をこと無く過ごすことだけで良いのだ。母親が亡くなった時から……いや、父親が罪に問われたあの日から、おすがはそう思って生きてきた。

 おすがの父親は腕の良い指物師だった。母親は病弱だったが、それでも一家は幸せに暮らしていたのだ。あの日父親は同じ指物師だった男を殺めた咎でお縄になった。いや、そんなことは無いのだ。男が殺められたその日、母親が倒れ父親はずっとその看病をしていたのだから。

おっとさんはきっとそのことを訴えたにちがいない。証拠などありはしない。それでも死罪となった……これがさだめ?

母親はその後すぐに死んだが、二人の受けた仕打ちは言葉では言い尽くせないものだった。それでもおすがは生きてきた。何が何でも生き抜いてやる、おすがにあるのはそのことだけだった。おっとさんへの思いもおっかさんへの思いも断ち切った。

それなのに、今あの時をまざまざと思い出させる人間に出会ってしまった。

 「これは何かの間違えだ、話せばわかる心配するこたあねえ」

父親はそう言い残して引っ立てられて行った。寝込んでいた母親は、後を追う事もできず表戸の前に倒れ込んでしまった。八つになったばかりのおすがには母親を助け上げる力がなかったのだ。泣きたくなるのを唇を噛んでこらえていた。

「大丈夫ですか」

見上げるとお武家屋敷の子どもが立っていた。時々見かけたことのある子どもだった。その子は躊躇わずに母親の身体を支え中へ運ぶのを手伝ってくれたのだ。周りの大人たちが見て見ぬ振りをする中、まったく意に介す事もなく自分たちに関わってくれた。それなのに、おすがは心の中では手を合わせたが何も言う事ができなかったのだ。その子が何度か様子を見に来てくれたこともおすがは知っていた。時に握り飯が表戸の所に置いてあったこともある。おすがは何度もその子に礼を言おうとしたが、どうしても言えなかったのだ。

病人にも容赦のない誹りは降り注ぎ、心をも病んだ母親は首を括って死んだ。おすがはその日の食べ物を何とか手に入れたいと、方々を歩き周ってやっと貰えた甘藷の切り端を抱いて帰った時、その母親の姿を見たのだ。

追い打ちをかけるように父親は処刑され、死罪人としては珍しく父親の骸は払い下げられた。今考えると、これは無実かもわからない父親への温情ではないかとも思うが、父親の親戚筋の計らいで、両親は無縁塚に葬られることはなかった。これだけがおすがにとっては幸いなことであった。

 おすがはその親戚筋に引き取られ、やがて福久に身売りされ染哉となったのだ。それをさして不幸とも思わずおすがは生きた。

吉哉も同じだった。身寄りのない子ども、まして女が生きて行く道は芸を売るか身を売るか二つに一つ。福久ではわずかにまだその選択が許されたのは幸いだった。染哉は芸に生きると決めすべての芸事に打ち込んだ。吉哉もまた気風の良さも芸風も染哉ゆずりの芸者として生きるはずだったのだ。それなのに吉哉は男と死んだ。おすがは悲しみよりも怒りを抑えられずにいた。

福久の馴染み客に益田屋の主がおり、おすがを身請けしたいと前々から申し出ていた。

おすがに元よりその気はなかったが、その話を受けることにしたのは、芸者として生涯を生きることへの迷いもあったのだ。益田屋の主宗衛門は入り婿だが、婿に入ってからの働きで益田屋を今の大きさに築き上げた根っからの商い人である。息子二人は親に負けないほどの商才を持ち、それぞれに嫁も娶った。宗衛門の妻は二年前に身罷っており後々はおすがを後添えにと考えてのことであろう。

 福久では吉哉のこともあり、益田屋の申し出を染哉が受けたことを「験直し」だと大いに喜んだ。染哉にとっては福久には義理が果たせたということになる。


 片町で記憶を頼りに見つけたその裏店を前に、道斎は立ち尽くしていた。あの時のことが昨日のことのように思い出される。何故あの時もう少しあの親子のことを知ろうとしなかったのか、十の子どもでは無理はないとは思いながらも、それが悔まれた。道斎は立ち話をしていた若い女達に、昔からこの店に住む人がいないか訊ねた。

「そこのおかね婆さんなら、ずい分前からここに住んでるよ」

一人がそう応え、「おかねさん、お客さんだよ」とその家の前で声をかけてくれた。表戸が開いて顔を出したのは五十をとおに過ぎたかと思われる女で、道斎の顔を見ると眉間を曇らせた。

「何の用だい」

表の女達がこちらを窺う。道斎は十五年くらい前のことを聞きたい旨おかねに話し、表戸を閉めた。

「突然にすまねえな。婆さん、十五年程前にこの店で縄付きが出たことを覚えていねえかい」

おかねは一瞬驚いた顔をしたが、すぐに目を逸らして「そんなこと聞いてどうするんだい」

と道斎に向き直った。

「俺はこの先の飯沼の者で怪しい者じゃない。あの一家の父親がお縄になったとき、この場にいた者だ」

「飯沼の……それなら医者になったってえ、末の若さんかい」

家を出て医者になった道斎のことは、この店のあたりまで知られているらしい。道斎は急に居心地の悪さを感じたが、コホンと小さく咳払いをして頷いた。

「あの一家はあの後どうしたのだろうか」

「そりゃ、酷いもんだった。男が死罪になった後おかみさんは首を括って……それをあの子が見つけたんだ。可哀そうに」

「その子はどうしたんだい」

「さあね、男の親戚筋が連れて行ったけど、どうせまっとうには育ててもらえないだろうさ、生きていりゃあ二十三、四になってるかね」

「名は何といった」

「忘れもしないよ、おすがといって優しい子だった。それなのに、縄付きの子というだけであたしらも邪険にするしかなかったんだよ」

おかねはそう言うと目を瞬いた。

おかねはそれ以上のことはわからないと言う。道斎は礼をいって裏店を後にした。

 染哉がおすがであることは、十中八九間違いないと確信した。道斎の足は自然に福久に向っていた。今更どうする……何ができる……その思いが道斎の歩を重くする。それでも道斎は染哉に会いたいと強く思った。

 本所深川に差し掛かった時、「先生」と平蔵と仁太に声をかけられた。

「親分、もしかして福久に?」

「先生に訊ねられた縄付きの男は、やはりあの染哉の父親だったようです。それも少しばかりきな臭えことが絡んでやしてね」

「きな臭い……?」

「もう十五年も前のことで、関わりのある者も少なくなったことではあるんですがね、どうやらあれは手配違えで……しかもお旗本が絡んでいたんじゃどうしようもなかったと、本所の兼蔵が言いやすんで」

「旗本?それは誰でえ」

「兼蔵もそれには口を噤んで、知らないと言うんでさ」

道斎は今また、あの時のあの父親の顔をはっきりと思い出していた。手配違いで人の人生を変えたというのか。

道斎は福久へ向かう足を返して、片町へと走った。

 何年も無沙汰している飯沼の家である。敷居は道斎が思う以上に高い。それでも道斎はその門を潜った。

飯沼の家は兄斗馬が跡目を継ぎ、父母は穏やかに隠居の日々を送っていると、風の便りには聞いている。三男である自分は本来しかるべき家に養子縁組し、飯沼を名乗ることは憚れるのだが、それに背いて今尚飯沼を名乗っている。それも道斎を家から遠ざける理由でもあった。

 「まあ、道綱様」

裏口からこそりと入った道斎を見つけて、女中のよねが駆け寄ってきた。

「よね、無沙汰いたした」

「ほんとうに、奥様がいつもお気にかけておられますよ、ちっとも顔をお見せにならないと」

よねは道斎が幼い頃から、いや母が輿入れしたときから飯沼の家に仕えている。道斎もまたよねに育てられたようなものである。

よねに諭されて、改めて内玄関から中に入った道斎はまず兄の斗馬の部屋に向かった。

斗馬の妻である早苗が驚きの目を向けたが、すぐに柔らかく微笑み斗馬に取り次いだ。

「道綱、久しぶりじゃないか」

斗馬は変わらない。文武両道に長けた兄である。その上人柄も良い。道斎はこの兄には逆立ちしても敵わないと、幼い頃から思い知らされて育ってきたのだ。

「兄上も御達者で何よりです。ご無沙汰いたしました」

「そう鯱張るなよ、父上達には挨拶したのか」

「いえ、まだ……」

父母の部屋は小さな離れで、以前は道斎の祖母が住まっていた部屋である。道斎は緊張してその部屋を訪なった。

「まあ……旦那様、不義理な息子殿が顔を見せましたよ」

母は笑いながら父一馬に声を掛けた。文机に向かっていた父は顔を上げ、

「道綱、久しいの」とこれまた優しい目を向ける。

「急に訪ねてくるとは、何かあったのですか」

母は少し眉を曇らせて訊ねる。

「いえ、特に取りたてたことではないのですが、今関わっている捕物の件で覚えておいでのことはないかと……」

「捕物?ああ、そうか。お前は検死医をしておると言ったな」

「いや父上、本来は医者ですよ。深見殿に頼まれた時には検死をしていますが」

道斎は少しむきになっていう。

「で、捕物とはどういうことだ」

「十五年ほど前、そこの裏店で縄付きが出たことを覚えておいでではありませんか。男が人を殺めてお縄になった」

「十五年……ずいぶん又古いことじゃな」

「その男は下手人ではなかったと、気になる事を聞きました。何でも旗本が絡んでいるというので、何かご存知ではないかと」

道斎は父親といえどもはっきりとした物言いをする。家に居る頃はそれでよく叱責されたものだが、父も母も隠居してからは温和な爺婆でいるようだ。

「そういえば、そのようなことがあったような……」

と母が言う。

「今頃それを知ってどうする。もうとうに決着のついたことであろう」

「お縄になった男は処刑されましたが、下手人が別にいたとしたら、その男の一家はしなくても良い苦労を強いられたでしょう」

「じゃが、過ぎたことであろう。何を今更……」

「今更どうすることもできません。でも、私は真実を知りたいのです」

一馬は一瞬真顔になり道斎を見た後、紗枝に茶を淹れるように言い母はそれに従った。

 久しぶりに母の点てる茶を飲む。ほろ苦く甘みのある茶は道斎の気持を鎮めた。

「あの時のことは忘れもしない」

父は茶碗から目を上げて、道斎に向き合う。道斎も父の言葉を待った。

「お前の言うように、あれは間違い……というより仕組まれたものだったと思う」

「何と、誰に仕組まれたと」

「それは……」

「本当の下手人は、今も旗本として仕えているのですね。のうのうと……」

理不尽であっても、今ではどうする事もできないと判っていた。それを知っていながら何故手を差し伸べられなかったのか。道斎はあの時の母の言葉を思い出していた。

あの一家には一切関わらないように……母はあれが仕組まれたことと知っていて、そういったのだろうか。道斎の胸に悲しみが広がる。

「見て見ぬ振りをするしかなかった……ということなのか」

母は何も言わずもう一服茶を点て始める。どうしようもできない事もあるのだ。無言で俯いているその顔がそう言っているように思えた。

 一緒に夕食をと言う早苗に断りを言い、道斎は六兵衛店に戻った。染哉の顔が頭から離れず、どうにも落ち着かない。

表に人の気配がして、おせんが顔を覗かせる。

「先生、昨日は迷惑をかけちゃって悪かったね。これ少しだけど」

そう言って、青菜の煮付けの入った小鉢を差し出す。

「おお、いつもありがとよ。具合はどうだい」

「もう大丈夫。心配してくれてありがと」

「無理はしないことだ。子ども達のためにもな」

「あい、わかってますよ」

おせんは明るく笑った。また道斎の頭の中に染哉が浮んだ。染哉は益田屋に身請けされるというが、望んでのことだろうか。どうしてももう一度染哉に会いたい……道斎はそう思う気持ちを持て余していた。

  それから一廻り、道斎は何をするでもなく本所深川あたりを歩いた。六日目に偶然会った平蔵は、過ぎたことは忘れろと言う。

「先生、浮かない顔をしてやすぜ、納得いかないのは分かるが、今更どうしようもありやせん。それに、染哉はもう福久にはおりやせんぜ」

「何処におる」

「さあ、福久の主はもうここには居ないと言うばかりで……もう益田屋に、とも思いますが、益田屋に直接訊ねるのもどうかと、二の足を踏んでまさぁ」

道斎は「そうだな……」と応えたが、それでもやはり福久の前に来てしまった。

夕刻になると仕度を整えた女達が一人二人と出てきたが、当然染哉の姿はない。道斎はしばらくその場で佇んでいた。自分でもいったい何をしていると呆れるが、どうしてもその場を離れられずにいるのだ。

福久から出てきた女の内一人が、道斎に近づき話し掛ける。

「旦那、染哉さんは此処にはいませんし、もう来ることもありませんよ」

「益田屋の所か」

「大店のおかみさんへと見込まれたんだ、今頃はそのための手習さね」

連れの女が言い、話し掛けてきた女がそれを制する。

「廣松、いらないことをお言いでないよ」

廣松と呼ばれた女は首を竦めて、二人は足早にその場を離れた。

 

 染哉は廣松が言うように、益田屋に与えられた今戸町の家にいた。宗衛門は染哉を後添えにしたいと息子達に申し出てはいたが、良い返事は得られなかった。すでに六十を超える宗衛門である。息子達にすれば今更芸者を身請けし、後添えに据えるなど、もっての他という事であろう。宗衛門はもう少し待つように染哉に言い、今戸の家に身の回りの世話をするおちかを染哉と一緒に住まわせたのだ。

ご新造さん……おちかは染哉をそう呼ぶ。

「ご新造さん、今日の夕餉はいかがしますか」

「何でもいいさね、お前の好きな物におし」

おちかは十六になる娘で、十の時から益田屋の下働きをしていたという。決して見目は良いとはいえないが、気立ての良い娘で笑うと下がる目が愛らしい。

染哉は此処へきてまだ一廻りではあるが、安らいだ心持で過ごしている。それは三味や踊りの染哉としてではなく、一人の女、おすがとしての安らぎであった。

宗衛門は最初にこの家に染哉を連れてきた時と、その後一日の二回だけこの家を訪れたが、

長居はせずに戻っている。それは染哉に対しての宗衛門の誠ではないかと、染哉は感じ始めていた。染哉は正直なところ、宗衛門の後添えとして大店に入ることを望んではいないのだ。二人の息子の気持はよく分かった。義理とはいえ、芸者上がりを母とは呼べまい。

自分が宗衛門の立場を危ういものにしているのではないか、そのことだけが染哉の気持に影を落としていた。

 

 ふた廻りを過ぎた頃、道斎はやっと染哉を思い切った。染哉が大店の女将として生きて行けるのならそれで良い。そう思うことで染哉を忘れ、道斎は元の凡々とした暮しを選ぶことにしたのだ。

裏店では相変わらずおろく先生と呼ばれ、仁太の呼び声で検屍に駆けつける。そんな日常が自分には似合っている。道斎は心底そうとも思うのだ。

「お母上が気にかけておられるようだぜ」

男の土佐衛門の検屍の後、深見が道斎を呼び止める。あの日夕餉をというのを断り、それきり片町には足を向けていない。

「ずいぶん昔の事を洗っているらしいが、詮無いことと思えないのは先生の良い所だ。だがよ、ふた親を心配させたままってえのは頂けないぜ」

「はあ、もうそのことは……」

言いかける道斎を遮って、「とにかくもう一度飯沼の屋敷を訪ねることだ、母上殿は何か話があるようだぜ」

深見は促すように道斎の肩を叩き、平蔵と土佐衛門を乗せた戸板の後を追った。

「話が……」母が何を言いたいというのだ。道斎はまたゆるゆると歩いて六兵衛店に戻った。

敷きっぱなしの夜具を片側に寄せて、道斎はしばし考えてみる。染哉の父親が縄付きになった日、母は「あの一家には関わらないように」と言ったのだ。縄付きの家族はみな、同罪だと。

あの時の母を道斎は思い出していた。今考えると、あれは道斎の知る母ではないように思えた。母は染哉の父親が本当の下手人で無い事を知っていたのだろうか。知った上で目を背ける以外なかったのか。

母が何か知っていて、そのことについて話したいのなら道斎は聞きたいと思った。明日は片町に帰ってみよう……少し老いた母の顔を思いながら、道斎は独り言ちた。

 翌朝、片町の飯沼の家では騒動が起きていた。道斎の母紗枝が床を出た所で倒れたのだ。

幸い逸早く一馬が見つけ医者を呼んだため、一命は取りとめたが、卒中の疑いありと診たてられた。

よねはおろおろと涙を流し一馬に叱責されているが、皆一様に暗澹とした思いの中にいた。

道斎がやってきたのは、ちょうどその最中である。

 「道綱様」とよねは泣き崩れ、早苗は「どうして……」と目を瞠った。

「母上、いかがなさいましたか」

道斎は驚き母の側に寄り、脈を取った。

「お前、母上のことが分ったのか」

斗馬も驚いた顔でそう言ったが、医者である道斎が来たことを喜んだ。

「先ほど、元安先生に診て頂いたところじゃ。卒中やも知れん」

父一馬も安堵と当惑の混ざった顔を道斎に向け告げる。

「卒中……」道斎は父を見上げ、もう一度母の脈を確かめた。

脈は弱くはなく、顔色もさほど悪いようには思われない。卒中であれば嘔吐などがあるがそれは無いようだ。

「気付けの薬を処方されましたか。それならしばらく様子を見ましょう。気づかれれば良いのですが」

道斎は母の手をそっと掛布団の中へ戻した。

 道斎が居る事で皆一様に落ち着きを取り戻し、静かに紗枝の様子を見守った。夕刻になって紗枝は薄く目を開けた。

「母上、気がつかれましたか」

道斎が顔を近づけて声を掛けると、紗枝は少し頷いたように見えた。母屋に戻っていた斗馬たちも離れに集まり紗枝を取り囲んだ。意識を取り戻したことは明るい兆しだと道斎は皆に話し、「まだ油断は禁物です」と付け加えた。

「そうしておると、お前も一端の医者だな」斗馬はそう言い、早苗に窘められている。

「道綱様、少しお休みくださいな。お母様には私がついておりますから。およね、お茶など淹れてさしあげてくださいね」

「いや、今しばらく様子をみていましょう、姉上心遣い有難うございます」

道斎は早苗に向ってそう答える。早苗は柔らかな笑顔で頷き、よねに茶を持って来るように、そして薬湯を煎じるように申し付けた。

思えばこの早苗が飯沼の家に嫁として来た時、次兄の嗣綱がまるで追い出されるように家を出た。その時道斎は、この家には自分の居場所などないのだとはっきりと悟ったのだ。嫡男でないというだけで、宛がわれるように養子となってその家の子女を娶る。そのようなことは到底納得できなかった。だが、嗣綱も大久保の家で千津という伴侶を得て武士として名を馳せている。早苗も千津も気立ての良い義姉である。兄達と比べて、自分はどうなのだ……強がっていても裏店での貧乏医者では立つ瀬がない。道斎はまだ微睡みの中にいる母の顔を見ながらそんなことを考えていた。

ほどなくして紗枝は目を開けた。

「母上」

「道綱、どうして……」

紗枝は起き上がろうとしたが道斎に止められ再び横になった。

「どこか痺れなどはありませんか。頭は痛くありませんか」

紗枝は大丈夫というように頭を振った。道斎は安堵の顔で頷き、早苗とよねはまた涙を流した。様子を見にきた元安も「どうやら卒中ではないようですな」と道斎に告げ、しばらくは安静にするよう伝えて帰っていった。皆一様に安堵し、遅い夕餉を取るために母屋の方に移った。

「あなたに、話があったのです」

しばらくして戻った道斎に紗枝が話し始めた。

「母上、話ならまた伺います。今はゆっくりとお休みになることです」

「大丈夫です。母はあなたに嘘をいいました」

「嘘……」

「あの時です。子どもの頃、あなたがあの一家のことを訊ねた……」

道斎は母の次の言葉を待った。

「私は知っていたのですよ。あの一家に咎はないことを。でもどうすることも出来なかった」

「わかっています。でも…母上が胸を痛めることではありません。今となっては仕方のないことです」

「あなたに、あの一家に関わることを禁じましたが、それはあなたの正義心が怖かったから、大人に…私達に対して…いえ、武士に対してあなたが失望するのが怖かったのです。あの者たちは同罪で悪人なのだと、そう嘘をつくことで、あなたをあそこから遠ざけようとしました」

「でも、私はそれに背きました」

「ええ、知っています。私もあの家の戸口に握飯を何度か置きました」

「母上が、ですか」

紗枝はふっと笑って目を瞑った。

「あの子供はどうしたでしょうか」

「大丈夫、無事に暮らしておりますよ。さ、もう話さずにお休みください」

少ししてやってきた早苗と代わり、道斎は母屋へ戻った。

「道綱、お前がいてくれて本当によかった」

斗馬にそう言われると、道斎は急に居心地の悪さを感じ始めた。両親もいつの間にか年老いて、自分はその両親に対して何の孝行もできずにいる。

三男である自分には居場所が無いなどと、拗ねた気持ちでいたことが今更ながらに恥ずかしかった。

「紗枝は重い病ではないのじゃな」

「はい、今のところ悪い病ではないと思います。きっと疲れが溜まっておられたのでしょう。とはいっても母上も寄る年波には逆らえません。大事になされなくては」

父一馬の問いに答えながら、これからは、度々両親の様子を見る為にも顔を出すようにしよう…と道斎は自分自身にも言い聞かせていた。

 

 今戸町の離れ家に、益田屋の惣領である甚右衛門がやって来たのは、その日の朝であった。

甚右衛門は宗衛門が病に倒れたことを淡々と染哉に告げたのだ。

「旦那様のご容態は…どうぞ私にお世話をさせてください」

染哉はそう頼んだが、甚右衛門は「父の世話は私共でいたします」と冷ややかに言い、

「この離れ家はこのままあなたに差し上げましょう。これまで父がつぎ込んだ金子は並大抵ではありません。これ以上は容赦願いたい」

と袱紗に包まれた金子を染哉の前に置いた。

「旦那様はご了承でしょうか、私は旦那様に身請けされた身……旦那様のご意向ならばどのようなこともお受けいたします」

「父は……父が何と言ったかわかりませんが、私共は承服しかねる。益田屋は父だけの店ではないのです。それに父はもう長くはないとのこと……」

おちかが前掛けで顔を覆い咽んだ。染哉はその背を優しくさすりながら、

「一度だけ、旦那様に会わせてください。お会いしてから身の振り方を決めさせていただきましょう」

と、真直ぐに甚右衛門を見据えて言った。

「私は旦那様に何の義理も果たしておりません。福久にいる時は、娘に接するようによくして頂きました。せめて今までのお礼など直接申し上げたいのです」

甚右衛門は少し考えた後に、頷いた。

 益田屋は変わらぬ賑わいをみせており、甚右衛門が伴なって来た染哉を使用人たちは一様に驚きの表情で迎えた。

「お前さん、これは一体どういうことですか」

奥から出てきた甚右衛門の女房ふじが目を剥いて訊ねる。

「この方は親父殿の客人だ」

甚右衛門はふじを制して言った。

離れに宗衛門を見舞った染哉は、一目で宗衛門の病の重篤さを悟った。宗衛門の横には医者が座り、様子を見守っている。

「旦那様、染哉…いえ、おすがです」耳元で呼びかけたが、宗衛門は目を閉じたままだ。

染哉はその傍らで両手をついて頭を下げた。

「旦那様、今までご贔屓いただき染哉は幸せでございました。おすがとなった今も……これからもしっかりと生きてまいります。ありがとう存じました」

染哉は涙を拭い、甚右衛門と離れを後にした。

益田屋の内所ではふじと甚右衛門の弟宗次郎が待ち受けていた。染哉は三人を前に座り、頭を下げた。

「旦那様へお礼を申し上げることが叶いました。ありがとうございました」

「それで……」

ふじが怖ろしいものを見るような顔で染哉に訊ねる。ふじも宗次郎も染哉がどのような要求をするのかと、戦々恐々の体だ。

「旦那様にして頂いたものをお返しするのが筋とは存じますが、今の私にはすぐにという訳にまいりません。今しばらく今戸の家はお貸しいただけますか」

「あの家は親父殿があなたに差し上げたものだ。話した通り返していただくつもりはありません。それに私共としても当座の暮しが立つだけのものは用意いたします」

「お心遣いありがとう存じます。私はそれ以上のものは何もいりません。それからおちかさんですが、これからもこちら様で使っていただけるよう、どうぞよろしくお願いいたします」

「それはもちろん、おちかは元のようにうちで働いてもらいますよ」

ふじが取り付く島もない様子で答えた。

「どうぞ、旦那様をお大事になさってくださいまし」

甚右衛門の差しだす金子を押し返して、染哉は席を立った。外に出ると少し暖かくなった風が優しく頬を撫でた。不意に涙が込み上げてきてその頬を伝ったが、染哉は真直ぐに前を向いて歩き続けた。

 

 「先生、旦那が呼んでいやす」

「おう、場所はどこでえ」

六兵衛店では、道斎は相変わらずおろく医者として走り回っている。紗枝の一件以来、度々飯沼の家を訪ねて両親の機嫌を伺ってはいるが、貧乏医者でいることにも変わりはない。仁太に案内された先には、胸に匕首を差したまま命を落とした男が道端にころがっていた。

すでに深見も平蔵も来ていて道斎の検屍を待っている。

「心の臓を一突きだ……これはよほど手慣れた奴の仕業だな。それに争った跡もない」

「顔見知りでやすかね」平蔵が覗き込む。

まだ若い男だ。深見は道斎の検屍が終わるのを潮に仁太に戸板を持ってくるように伝えている。

検屍が終われば道斎の役目は終わる。ゆるゆると六兵衛店に戻る道すがら、見上げると大きな月が重たげに昇っている。薄い雲を纏っているような朧な月だ。

道斎はふと染哉を思った。染哉は無事に益田屋の女将になったのだろうか。朧月はどこか儚げな染哉のようだ……道斎はどうしても浮かんでしまう染哉の顔を振り切るように、大きく頭を振って足を速めた。

 

 今戸町では、三味線と唄を教える深川芸者上がりの師匠がいると評判になっていた。福久の主が染哉を気遣って芸者たちを稽古に通わせはじめたのだ。染哉はささやかではあるが、おすがとして穏やかな暮しを手に入れつつあった。

「月は朧の春の夜の夢ばかりなる手枕に」

三味線の音がふと止まり、障子が開く。おすがの見上げる月もまた、薄絹を纏う朧月だ。

「照りもせず曇りもやらぬ……月はおぼろ」

障子が閉まり、おすがの唄う「手枕」が静かに夜の路地を流れて行く。

 
 
 

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