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おろく先生走る~萩の夜…二人いる~

  • sakae23
  • 7月1日
  • 読了時間: 32分

おろく先生走る~萩の夜…二人いる~


 道斎が今戸町のおすがの所に通い始めて半年が経っていた。おすが…染哉が今戸町で三味線と唄を教えていることを、平蔵が教えてくれたのだ。

染哉は益田屋の後添いにはなっていなかったのだ。それにしても何故…道斎は初めておすがを訪ねたときのことを時々思い出す。

平蔵の教えてくれたその家は蓮窓寺の門前向かいにあり、大店の別宅にしては手狭ではあるが、小さな庭も設えてある趣きの良い一軒家だ。

少し気後れしながらその表戸の前で「いるかい」と声をかけた。少し後に表戸が開き染哉が顔を見せる。あれほど会いたいと思っていた染哉なのに、道斎はとっさに何を言えばよいのか言葉に詰まった。

「おや、旦那何か…」

道斎を見ても染哉は驚くそぶりもなく、冷ややかにそう言っただけだ。

「いや…その…ここで一中節を教えてくれると聞いたもので」

「一中節を、旦那がかい」

染哉はふっと唇の端を歪めたが、道斎を中に入れてくれた。

もちろん一中節は咄嗟に出たことで、道斎にはその心得もなければ習おうという気もなかったのだが。

 あの日から道斎は染哉、いやおすがに一中節の手解きを受けている。成行きとはいえおすがとの日々は道斎に安らぎを与えてくれているし、一中節も思いのほか面白く、道斎は時間ができると今戸町を訪れ、おすがの三味に合わせて一節唸っているのだ。

半年も経つのに、道斎とおすがの間は師匠と弟子を保ったままである。これには道斎を検屍役に使っている同心深見も岡っ引きの平蔵も呆れて、平蔵に至ってははっきりと道斎の尻を叩くのだが、なかなか前に進む気配がない。

半年の間で何故おすがが益田屋の後添いにならなかったのか、その経緯については少しずつだがわかった。おすがはあまり喋る女ではないが、二人きりになると時おり優しい顔を見せることもあった。道斎はそれで充分だと思うのだ。


 「先生、深見の旦那が来ていただきたいと言ってやす」

その日はおすがの所へ行くつもりで支度をしていたが、平蔵の小者を努める仁太の声でその手を止めた。

「おう!場所はどこでえ」

「金剛寺門前に仏が転がっていやす」

「金剛寺だな、わかった」

道斎は仁太を置いて走った。仁太は追いかけてはいるが、道斎にはいつもついていけないのだ。

「おろく先生の足の速さは、まったく別物だぜ」

仁太は走るのをやめて、とぼとぼと金剛寺を目指した。

金剛寺門前には、平蔵と深見が到着していた。仏は女で年は二十歳前後というところか、身形も良く、大店の娘ではと思われた。

「先生、見立てはどうでえ」

「こいつは…後ろから首を絞めたらしい。何か細めの紐のようなもので、こう一気に締め上げたのでしょう 」

「むごい事をしやがる」

平蔵は仏の身体に筵をかけながら、唇をかんだ。

道斎は娘が命を落とした時刻を、子の刻過ぎと見立てた。子の刻を過ぎるとこのあたりは人一人通らない。

何故こんな娘がその時刻にこんな場所にいたのか、まずはそれを探らねばならんな、と深見は平蔵に言い、平蔵はやっとやってきた仁太に仏を番所に運ぶよう指示した。

 娘の身元はほどなく知れた。金剛寺から北に少し離れた諏訪町に住んでいたというその娘は、江戸でも比較的大店の両替商「井筒屋」の末の娘お咲だった。諏訪町の家にはお咲が女中のうめを伴って二親と離れて住んでいたという。

本所の井筒屋から、番頭たち数人が番所にやってきてお咲の骸を引き取って帰ったが、娘が殺められたというのに、二親が現れないのは解せないと、平蔵は首を傾げる。

「お手数をおかけしたと、井筒屋の主から相当な金子が包まれたようで…深見の旦那も困っておりやした」

「単に手数を掛けたための礼であれば、突っ返す訳にもいかないな」

道斎は少し笑ったが、すぐ真顔になり「両替商の娘か…」とつぶやいた。


 道斎は見立てが終れば、それ以上その件を深追いすることはほとんどない。ただ、この娘については、道斎も気になる点があり平蔵に進展を逐次伝えるよう頼んでいた。

道斎が最初に目につけたのは娘の身形だった。一人歩きの女が手込めにされ、首を絞められ殺されることはままある。

その場合女はそれに抗うため、まず髪は乱れ着崩れがはげしい。それを黙らせようとして下手人は、口を覆ったり首を力任せに締め上げて殺めるのがほとんどだ。

ところが、井筒屋の娘は髪の乱れや、着衣の乱れがなかった。これは若い女の他殺体にしては珍しい。どのような理由があってこの娘は殺められたのか。

深見が本所井筒屋を訪れると聞き、道斎も同行した。

「おや、今度も何か気になる所が?まあ先生の『気になる』は、我々にも為になることが多いので、助かりますがね」

深見は平蔵と一緒にやってきた道斎に驚く風もなく言い、井筒屋の表戸を開けた。

井筒屋は娘が殺められたというのに、何事も無いかのような静けさだ。

井筒屋の主五井正衛は、さすがに今日ばかりは店に姿を見せず、本所荒井町の自宅の方で弔いの手はずを整えているという。

それは百も承知の上である。深見の目的は井筒屋の使用人への改めにあった。

使用人たちの口は存外堅く、番頭や手代にいたっては主に口止めされているのか、まったく「知らぬ」「存ぜぬ」と口を揃える。

漸く話しが聞けたのは、丁稚のまさと下働きのおついだった。

「お咲はいつから諏訪町に住んでいるんだい」

深見は努めて穏やかに聞いた。相手はまだ十四、五の子供である。

「お嬢さんはもうずっと先から諏訪町ですよ」

まさが言い、おついも頷く。

「どのくらい前だい」

「あたしが奉公にあがって少ししてからだから、もう三年くらい前からだよ」

おついがそう言ったとき、年かさの女中が「おつい!」と声を荒立てた。

おついは首を竦めて口を閉ざす。

これ以上は何も聞くことはできないと、深見は井筒屋を後にした。

「先生、どうでえ。お咲とこの井筒屋には何か確執があると、俺は睨んでいるんだが…」

「何かありますね。店の者たちは何も言うなと言われている。これは何かあるということでしょう」

深見は頷いて「そうだよな…」とつぶやいた。

「行ってみるか…本所荒井へ」

「いや、主の家では今日は通夜と弔いの準備でしょう。それよりも諏訪町のお咲の家を確かめてはどうですか」

「諏訪町…一応改めはしたが…」本所荒井から諏訪町まではかなり離れている。深見は二の足を踏んだが、道斎はもう駆け出していた。平蔵は面白いものを見るように笑ったが、「あっしが先生と行ってまいりやしょう」と深見に言い道斎に続いた。諏訪町のお咲の家は、表戸を閉ざしたままで人の気配はない。はす向かいの家の女房が庭に出ているのを見て、平蔵が声をかける。「ちょいとすまねえ、この家の娘のことで教えて欲しいんだが」女房は表まで出てきて、いぶかしそうに二人を見る。「お咲さんのことなら、家の亭主が昨日同心の旦那にお話ししましたよ」「そうけえ、それは重ねてすまねえな。もう一度この先生にも話しちゃくれねえかい」道斎は女房に頭を下げて、お咲がどのような娘だったのかを聞いた。


「それは旦那、井筒屋のお嬢さんですよ。どのようなと言われても…」「身持ちの堅い娘だったと思うかい」平蔵が横から口をはさむ。昨日この辺りでお咲のことを聞いて回ったが、その人となりについてははっきりと答える者がいなかったのだ。

「身持ち…それは…どうなんでしょうね。特に何も…」「夜遅くに出歩いたり、人が訪ねて来たりということも無かったですか」

女房は一瞬、何か言いたそうな顔で道斎を見たが、「さあ…」と目を逸らせた。 

道斎はお咲の家を改めたいと平蔵に言い、平蔵は「わかりやした」とその家の表戸を開けた。若い娘が一人住まうには充分な広さのその家は、きちんと整理されている。お咲の部屋と思われる広めの部屋を改め、廊下の先にある厨を抜け、小さな襖を開けると薄暗い部屋に続いている。この部屋は女中のうめの部屋なのだろうか。

「ここは女中の部屋か…」

「そうでしょうな、ここに夜具が揃えてありやすし、うめが寝起きしていたと思われやす」その部屋に明かり障子は無く、襖を閉めきるとまるで夜の闇である。二日前まではこの家でお咲は暮らし、うめも寝起きしていたはずだ。それなのにこの家はそういった温もりが無いのが気にかかった。


「親分、この家には暮らしの匂いがしねえ…そう思わねえか」

「暮らしの匂い?」

「いや、確かに二人は暮らしていたとは思うが、何というか温もりがねえのよ」

「温もりねぇ、まあ何か理由があって一人で暮らしていたんでしょうから、そう温かくはありやせんやね」

平蔵は少し笑って道斎を見たが、道斎はそれには答えずにうめの部屋と思われるその小部屋の闇を見つめている。

道斎はもう少し時間をかけて、近所の話しを聞くべきと深見にも話すつもりでいた。

お咲にはきっと何か秘密がある。そしてその秘密のために殺められたに違いない。諏訪町から戻る時に、道斎はもう一度お咲が捨てられていた金剛寺門前を訪れた。

門前は何事もなかったかのように時おり人の行き来がある。門前のはずれに茶屋があり夕刻の今も商い中だった。

店を覗くと五十をいくつか過ぎたほどの女が「いらっしゃい」と声をかける。

道斎と平蔵は中に入り、小上がりに腰を下ろした。中食無しで諏訪町を改めた二人は空腹でもあったので、団子と茶を頼んだ。

平蔵が「ご用の向きで悪いんだが、ちょっと話しちゃあくれないか」と話しかけ、女は「何か…」と少し怯えた目で二人を見る。

「門前で女が殺められたことだが、何か知っちゃあいねえかい」

「私しゃ何にも知りませんよ。どこやらのお嬢さんだってねぇ」

「そのお嬢さんが来たことはなかったかい」

女は首を振ったが、「この辺りはおかしな若いものがうろついているからね、若い娘が遅い時刻に来るなんざ、考えられないことさね」と眉をひそめた。

「ただね、その娘かどうかはわからないけれどさ、一度きれえな身形の若い娘さんが、その通りを歩いているのを見たけど…」

「見たけど…?」

「何かおかしかったのさ、様子が…何というか、心が無いというか。ふわりふわりと歩いている感じでさ、そのうち女中のような女が連れて帰ったようだったけど、殺められたのはあの娘さんじゃなかったのかね」

「そうけえ…どうやらその娘に違いねえとは思うが、先生どう思いやす」

どう思うかと突然言われて、道斎は返事に困った。

「それがお咲かどうかはわからねえが、もしもそうだとしたら、お咲は普通の娘ではなかったのかもしれんな」

そうだとしたら、井筒屋を離れて一人暮らしていたことも頷ける。

「面白くなってきやがったな」団子を頬張りながら平蔵が言う。それを軽く諫めながら道斎も同じ思いでお咲の身の上を考えていた。


翌日夕刻、道斎は深見とともに本所荒井の五井正衛の家を訪ねた。まさに豪商と呼ぶに相応しい門構えの家に多少気後れはしたが、道斎は深見に続いて門を潜った。

弔いを終えたばかりの家にしては、やけに静かすぎる。道斎はどこか薄気味の悪さを感じていた。

一応客間には通されたものの、主はなかなか姿を見せない。道斎はともかく深見は次第にいらつきを隠せなくなった。

「何をしていやがる。いつまで待たせるつもりだ」

深見のいらつきが頂点に達したころ、漸く主の五井正衛が姿を見せた。

「お待たせして、申し訳ございません。朝からの弔いで体調を崩し伏せておりましたもので」

そう言われると、深見も何も言えず頭を下げるしかなかった。

「そのような時に悪いが、話しを聞かせてくんな。お咲さんを殺めた下手人について何か思い当たるふしはねえかい」

「そんな…手前どもでは、まったく…」

「お咲さんはどのような娘さんだったのですか」

道斎が訊ねる。

「どのような、と言われましても、お咲は手前どもの娘の内末の娘でございます。十八になったばかりで…」

「何故、お咲さん一人が諏訪町に住むことに?若い娘さんが親元を離れて暮らすには、それなりの理由があったのではありませんか」

道斎は畳みかけたが、正衛は特に理由はない。お咲が強く望んだことだと繰り返した。

「おかみさんは、どうなすったんだい」

「実は女房のふじは長く患っておりまして、この度のことも耳に入れておりません」

「ほう、伏せておられるのか」

「はい、もう一年になりますか。最初のころは寝たり起きたりでしたが、ここ数か月は床から起き上がれない日が続いております」

深見は気の毒そうに頷き、道斎を見た。

「あの…うめさんといいましたか、お咲さんの世話をしていたお女中に話しが聞けますか」

道斎は真直ぐに正衛を見て言い、正衛は一瞬その目を逸らせたが、小さく頷いた。

まもなく、正衛に呼ばれたうめがやってきて、部屋の一番下座で頭を下げる。

「おまえさんはお咲さんが殺められた時刻、どうしていたんだい」

深見は務めて穏やかな声で訊ねたが、うめは見る見る間に目に涙を溜めて手で顔を覆った。

「私はお咲様が家を出られたのに気付かず、ずっと部屋におりました。朝餉の時になって初めてお咲様の姿がないと気付き、慌ててお探ししておりましたが、まさかあのような…本当に申し訳ないことでございます」

少し落ち着いた後に、うめはそう話した。

「お咲さんが、夜家を抜け出すことはよくあったのですか」

道斎が訊ね、うめは「いえ、そんなことはありません」とそれにはきっぱりと答えた。


「先生は何にひっかかってるんだい」

井筒屋の家を辞して歩きながら、深見が道斎に話し掛ける。

「ひっかかるというか、どうしても気にかかることに目を背けられない性分で…お咲の着物にまったく乱れが無いのは、どうも気にかかります」

「そうさな、俺もそこのところは納得いかねえ、髪も着物もまるで今拵えたばかりに乱れがない仏だったものなぁ」

井筒屋でのお咲の存在は、どのようなものだったのだろう。

道斎はまずそれを知りたいと思った。直接井筒屋を改めたところで、奉公人は主から口止めされているに違いない。

「これは、外堀から探るほかないか…」道斎は言い、深見もそれに頷いた。

深見と別れて、思い立ったように道斎は今戸町に向った。

おすがの家からは今日も三味の音が聞こえている。この音が道斎を落ち着かせるのだ。道斎は表戸を開けて、「上がらせてもらうぜ」と声をかけた。

「おや、しばらくぶりじゃないか」おすがは相変わらず、道斎を意にも介さないという風に見る。

「ああ、ちょいと気にかかることがあってな」

「旦那の悪い癖さね」おすがはふっと唇を歪めて、それでも少し笑った。

「今日はどうするね、おさらいするかい」

「そうだな…なあ、まだ若え女が一人暮らしをするってえのは、どういう時だろうか」

「若い女…?」

「ああ、十五や十六の娘さ。それも大店の」

おすがは少しの間黙っていたが、

「そりゃ、家に居にくい何かがあったんだろうさ」と答えた。

「家に居にくい?例えば」

「ふた親との折り合いが悪いとか、何か秘密を知ってしまったとか…そりゃいろいろさ」

「ここには、本所荒川か諏訪町あたりの娘が三味の手習に来てないかい」

「荒川なら…水菓子屋のおみねさん、諏訪町に近い所では青菜問屋のお糸さんくらいかね」

「ちょっとばかし話が聞けねえか」

おみねもお糸も明日は稽古に来るという。

「ふたりとも大店のお嬢さんだ、おかしなことに首を突っ込ませないでおくれよ」

おすがはしっかりと釘を刺したが、「今日の明日だ、何なら泊まっておいきな」とさらりと言う。

道斎の返事を待たずに、三味線の糸の調子を合わせ始めたおすがに、慌てて道斎も見台を引き寄せ譜本を開いた。


 翌日昼四つ時になると娘たちが数人やってきた。おすがによるとお糸はこの中におり、おみねは昼八つ時に来ることになっているとのこと。

さして広くもないおすがの家は、娘たちの色香で満たされる。道斎はどうにも居心地の悪さを感じながら、その稽古が終るのを待った。

やっと一通りの稽古が終ったのは、牛の刻を過ぎたあたりで、おすがはお糸に訳を話し一人残してくれた。

「お糸さん、すまねえな。諏訪町に住んでいたお咲という娘を知っちゃあいねえかい」

道斎はできるだけ柔らかな口調で話しかけた。お糸は一瞬怯えたようにおすがを見る。

「お糸さん、この人はこんな風だけど、お医者様なんだよ。悪い人じゃないから知っていることがあったら何でも話しておやり」

お糸は少し安心したのか、道斎に向き直って口を開いた。

「お咲さんって、この前亡くなった井筒屋さんの娘さんでしょ。私はあまりよく知らないけれど、何度か会ったことはありますよ」

「話をしたことは?」

「いいえ、道ですれ違う程度、あの人変わっていたもの」

「変わっていた?」

「ええ、何だかいつも真っ直ぐ前を向いて歩いていて、人のことなど見えていないみたい」

「それに…家のものにもあの人とは関わらないようにと、いつも言われていたので、できるだけ知らん振りをしていました」

「ほう、家の人に…そんなお咲と親しくしていた人に心当たりはないかい」

お糸はしばらく考えていたが、私から聞いたと言わないで、と念押しして、

「いつだったか、お咲さんと一緒に歩いている人を見たことがあります。それが…」

「知っている奴か?」

お糸は少し怯えた目で道斎を見たが、こくりと頷いた。

「安西のお屋敷の…若様…」

「安西…飛騨守か」

道斎はう~んと唸った。大名の屋敷ではおいそれと踏み込む訳にいかない。

「飛騨守の屋敷の嫡男かい?」

「三番目の若様…あれはどうしようもない、とおっ母さんが言っていた」

道斎は「どうしようもない男かい」と笑ったが、おすがはそれ以上は言うんじゃないとお糸を制した。

「いいかい、ここで聞かれたことは黙っておいた方がいい。お家の人にもね」

おすがはお糸に念を押したが、心配だからと道斎に送って行って欲しいと頼んだ。

後ろからさりげなく見守りながら、道斎は諏訪町の青菜問屋までお糸を送り届けた。帰り道に少し遠回りをして、安西飛騨守の屋敷の前を通ったが、屋敷は存外に大きく道斎の前に立ちはだかる。

見えない相手を睨むように、しばらくその屋敷の前に佇んでいた道斎だが、少し肩を落として今戸町に戻った。

「あんまり遅いからさ、心配するじゃないか」

おすがは小言を言いながら茶を淹れてくれる。おすがの淹れる茶はほろ甘く、その茶を淹れるおすがは滅法界優しい顔をしていると、道斎はいつも思うのだ。

 昼八つになると三人の娘たちがやってきて、賑やかに稽古が始まる。初心の娘がいるらしく、手解きの「黒髪」に手を焼いているようだ。

三人の中で一番年かさなのがおみねだった。おみねは道斎もよく知っている大店の水菓子屋の末の娘で十九になるが、ふた親に勧められる嫁入り先にどうしても首を縦に振らず、長唄の師匠になると豪語しているらしい。

「すまないね。井筒屋のお咲さんのことを、先生に話してやってくれるかい」

おすがは稽古が終ったあと、おみねを引き留めて伝えた。道斎はおみねとは何度か会ったことがあり、おみねも「あら、先生こんにちは」と親し気に笑った。

「お咲さんね…よく知ってますよ。年も近いので手習にも一緒に行った仲ですもの。ただ、十になった頃からかな、まったく姿を見なくなったのは」

「十になった頃…?いったい何があったんだろう」道斎は腕組みをして天を仰いだ。

「お咲さんにどこか変わったことは無かったかい、病気がちだったとか…」

「いいえ、頭も良くて可愛くて、明るい子でしたよ。あ…そういえばその頃お咲さんのお母さんが長く療養していたような。子どもの頃のことで、はっきりとは覚えていませんけど」

「井筒屋の内儀は病気がちなのかな、今も伏せていると言っていたし。どんな人だか知っているかい」

おみねは、少し考えて頭を横に振った。

「お咲ちゃんがお母さんと一緒にいたところ、私見たことないのよね。いつも井筒屋の女中さんが付いていて…」

「お咲さんには姉がいたと思うが」

「ええ、お吉さんとお八重さん。今は二人ともお嫁に行ってまったく家には寄り付かないって、家のおっ母さんも、あきれてますよ」

「ありがとうよ、何となく井筒屋のことが見えてきたぜ。また何か思い出したら師匠に伝えてくんな。それから、こんな風に聞かれたことは他言は無用だぜ」

「あい。わかってますよ。ねえ、先生、師匠とはいつ夫婦になるの。しっかりなさいな」

道斎は「おい!何を…」と慌てておすがを見た。

おすがはふっとまた唇を歪めたが、何も言わず三味線を立て箱に戻し、「ばかなことをお言いでないよ。手間を取ってすまなかったね、気を付けてお帰り」とおみねに向って言った。

 翌日深見を訪ねた道斎は、お咲が十の頃から井筒屋を出て諏訪町で住み始めたらしいこと、安西飛騨守の息子が関わっているかも知れないことなどを話した。

深見は「う~む」とうなって腕組みをした。

「こりゃあ、先生…ややこしいことになるかもしれねえなぁ」

という深見に道斎は「そうですね」と肯いたが、深見の顔には言葉とは裏腹に見えない敵に挑む自信が感じられる。

深見のこういう所を道斎はいつも好ましいと思うのだ。この気質が出世を阻んでいるとしても、正しいことを正しい、悪は悪といえる深見は信頼し尊敬できる人間である。

「まずはお咲が何故諏訪町で一人暮らし始めたのか、そこの所を探ってみようじゃあねえか。お咲が殺められた原因はそのあたりにありそうだ」

道斎も「そうですね」と肯く。

「安西の息子については、それとなく探りをいれてみよう。あまり大ぴらに深入りはできねえが、なあにきっとどこかでボロを出しやがるだろうさ」

深見は飲みかけの猪口をぐっと空けて、道斎に笑いかけた。

「ところで、先生。染哉…いや師匠とは上手いってるのかい」

「え…はあ、まあ…」

「まあ何も焦ることはないがよ、平蔵がかりかりしていやがるし、片町の方でも佳い知らせを待っておられるんじゃないかい。先生も身を固めるには遅いくらいの年だしよ」

 道斎ももちろんそれは考えていた。片町の両親や兄はおすがの出を、決して咎めるような人間ではないだろう。まして道斎は武士を捨てたのだからその体裁にこだわることもない。

それでも道斎はおすがに自分と一緒になって欲しいと、何故か言い出せないのだ。それはおすがとの間の目に見えない壁のせいかもしれない。

おすがにはどこか他の人を寄せ付けないところがある。弟子たちにはそつなく接して、あっさりした良い師匠ではあるが、深く関わることはない。人情は厚いと道斎には思えるのだが、何かがおすがを頑なな気持ちにさせていることも分かるのだ。

じっくりと時間をかけてその気持を解いていくしかない。道斎はそう考えている。

「いろいろとご心配をおかけします。まあ急がず上手くやっていきますよ。平蔵親分にはいつもうるさく言われておりますが…なるようになる…です」

道斎はそういって笑った。

 平蔵からお咲についての耳よりな知らせがあったのは、翌日である。

「お咲が八つになった時、お咲におかしな癖が出たそうで…」

「おかしな?」

「へえ、それが…時々おかしくなる…夜ふらりと出会歩いたり、まったく喋らなくなったり」

「気鬱か…八つの娘が、何か訳でもあったのかい」

「お咲の扱いについては、どうも上の娘たちとはへだたりがあったようですな」

平蔵は少し遠くを見るような目をしたが、すぐに真顔に戻って、

「どうやら、内儀に問題がありやしてね。いや…内儀というより主の方か」

「お咲は内儀以外の女との子…ということか」

平蔵は苦笑いしたが「気になりやすね」と独り言のようにつぶやいた。


 道斎は門前払いを覚悟の上で、井筒屋を訪ねた。平蔵の同行を断ったのはお上の改めではないことを、主の正衛に知らせるためでもある。

あくまでも自分が気にかかることを聞かせて欲しい、それがお咲を殺めた下手人をお縄にする手掛かりにもなるのではと言うと、正衛は部屋に通してくれた。

「お咲さんが諏訪町に一人で住むことになったのは、十になる前と聞きましたが、八つの頃からの気鬱の病が理由ですか」

道斎があまりに自然に問うので、正衛は一瞬たじろいだが、すぐに威厳を保つように一つ咳払いをした。

「確かに、お咲には夜歩く…という癖がありました。医者にも掛かりましたが理由はわかりませんでした。ただ昼間は普通の子供で、気鬱などということはありません。周りの者が何を言ったかわかりませんが」

「お内儀は変わらないご様子ですか」

「はい、一進一退でございます。お咲をふじと離したのも、ふじの身体のことを考えてでもありました。

「ほう…お内儀のことを…」

「お咲が、何というか、ふじにどうも馴染まないもので。その所為でふじは心を…その…病んでしまったのではという医者の診たてで…」

道斎は意外そうに正衛を見た。正衛は案外正直な男ではないか、と思えたからだ。

お咲がふじの実の子ではないことを、案に告げているようなものではないか。それならと道斎は正衛に正面からぶつかってみることにした。

「お咲さんはいったい誰の…お内儀の実の娘ではないのですか」

「とんでもない、お咲は間違いなく私どもの娘でございますよ」

「先ほど、お内儀に馴染まないとおっしゃったのは、そういう意味ではないのですか」

「実の娘なのに、何故かお咲はふじを嫌い、それは生まれた時からなのです。ふじが抱くと狂ったように泣き、その頃からうめが面倒をみるしまつで」

「そのことが原因でお内儀が気鬱になられた、ということですか」

どうやらお咲は正衛の不貞が原因の子ではないらしい。道斎はそのことを意外に感じながら、井筒屋を後にした。

 何故お咲はふじに馴染まなかったのか、それも実の母親のふじにである。このことがお咲が殺められたことに深く関わっていると感じながら、道斎は首を傾げた。

生さぬ中の母と子の葛藤が原因ではないか、と踏んだ道斎の勘は見事に外れたのだ。もしかしてお咲は旗本の三男坊に単に弄ばれて殺められただけなのか…

道斎はもう一度首を傾げて空を仰いだが、思い直すように平蔵のやさのある富坂に向った。

平蔵は道斎を招き入れて、女房のお勝に酒を用意するよういったが、道斎はそれをやんわりと断り、上がり框に腰を下ろした。

「どうでやしたか、井筒屋は」

「それが、お咲は内儀の実の子だと…実の子でありながら内儀を嫌ったという。これはどういうことなんだろう」

「ほう、あっしはてっきり内儀が継子いじめを、と思いましたが、そうではないので」

平蔵も首を傾げる。

「井筒屋の主も最初は狸かと思ったが、どうやらそうではないようだ。下手人についてはどうだい」

「へえ、それとなく安西殿の三男坊にはさぐりを入れてやすが、これといった収穫は……相手が悪いということもありやすがね」

「深見殿もなかなか手が出しにくかろう。明日は女中のうめの所に行ってみようと思うが、親分も行くかい」

「明日は旦那のご用向きで、もう一度井筒屋へ聞き込みに行くところでやした。お供しやすぜ」

道斎は、「それは、ありがてえ」と人懐っこく笑った。

平蔵の酒を断ったのは、今夜はおすがの所に寄ろうと考えたためだった。今戸町までの道すがら、おすがが好きな饅頭を買った。

下戸ではないが、おすがは酒を飲まない。時々道斎に一本つけてくれることもあるが、自分は熱い茶が良いという。

「捕物の帰りかえ」

おすがはいつものようにさほど驚くようすもなく、かといって愛想よく迎えるわけでもなく、表戸を開けた。

「ああ、井筒屋での首尾を親分に伝えた帰りさ」

道斎は饅頭を渡しながらそう言って、おすがの返事を待たずに上がり込んだ。

「一本つけるかえ」

「いいのかい」

少し冷えてきた身体に、熱燗が恋しいと思っていた道斎はおすがに頷いて、笑いかけた。

「なんだね」

「いや、師匠には何でもお見通しだな、と思ってさ」

おすがは唇の端を少し歪めたが、何も言わずに酒の用意をはじめた。

ちょうど良い熱さの酒が道斎の胃の腑を温め、おすがが手早く作る青菜の煮びたしがまた美味い。

「なあ、実の子が親に懐かないなどというのは、どのような訳があると思う」

「実の子…さあね、親が子を可愛いと思や懐くだろうさ」

「お咲の母親はお咲を可愛いと思っていなかった…?なぜだろう」

お咲が殺められたことが、直接生い立ちと関係あるとは言い切れないが、道斎はどうしても切り離して考えられなかったのだ。

おすがは饅頭を二つに割って、その一つを口に入れながら、道斎をちらりと見ていった。

「可愛さと憎さは紙一重ってこともあるさね。どうしてもその壁を超えられないってことも、人にはあるもんさ」

「可愛さと憎さ……」

その辺りのことはうめが何か知っているかもしれない。まったく見えてこなかった道筋にかすかな灯が見えたような気がする。

猪口を飲み干すと、道斎はその灯に向うように一人で大きく頷いた。

「明日が楽しみになってきたぜ。ありがとよ」

おすがはもう一度唇の端を歪めたが、それ以上は何も話さず茶をしなやかに啜った。

 翌日予定した通り、道斎は平蔵と共に井筒屋のうめと向き合っていた。うめはお咲と暮らした店を出て井筒屋に戻っていたが、話し難いのではという平蔵の心遣いで近くの茶屋に呼び出されて二人の前にいる。

「忙しいところすまねえな。どうしてもお咲さんのことでお前さんに聞きたいことがあると、医者の先生が言われるもんでな」

平蔵がやわらかな口調でうめに話し掛ける。うめは少しおどおどした感じで道斎を見たが、

「親分に申し上げたこと以外には、私は何も知らないのですよ。お咲さんのお世話といってもほとんど自分でなさってましたから」

と取り付くしまもない様子で言った。

「お咲さんの子供の頃のことを知りてえのよ。少し変わった所があったんじゃねえのかい」

うめは一瞬驚きと怖れの表情を浮かべたが、何も答えない。

「お咲さんを殺めた下手人を早く見つけたくはないのかい」

平蔵も横から声をかける。

「お咲さんの子供の頃のことが今回の殺しに関わっているような気がするんだが、違うかい。もちろん誰にも話したりしねえから、教えてくんな」

うめは俯いてしばらく黙っていたが、ぽつりぽつりと話し始めた。

「お咲様は、普段は普通のお子ですが、急に人が変ったようになることがありました」

「人が変る?」

「はい、それはもの心ついた頃から始まって、特に奥様が抱こうとなさると急に…」

「ほう、母親に懐かないということかい。何か訳があるのかい」

「お咲様の中にはもう一人の誰かが住んでいると、奥様が怯えて言われるので、私も恐ろしくて…」

「もう一人の誰かが、どういうことだろう」

道斎は首を傾げた。人間には自分の他に別の人格が心に潜んでいることがあると聞いたことがあるが、その類か。

「あの…こんなこと…言ってよいかどうか…お咲様は本当は身二つで生まれたのです」

「身二つ…ふたごかい」

「一人は小さくて死んで生まれたと…産婆のよねさんが」

「なんと、そんなことが」

「旦那様は、誰にも言わないようにと、きつくよねさんに申し付けたのです。ただ、私はその時奥様の傍にいたもので…奥様はそのことはご存知ありません」

一旦話しはじめるとうめは堰を切ったように続けた。

「お咲さんは、小さい時から少し変わっておられました。奥様はそれを気に病まれて、だんだんお咲さんを遠ざけるように…」

「それで、別宅でお前さんと暮らすようになったのかい」

平蔵が声を落して聞くと、うめはこくりと肯いた。

「お咲さんの心の中に、もう一人の魂が宿ったということか…そいつは何とも怪奇なことだが、どうも納得しきれねえ話しだ」

道斎は平蔵に向って言い、うめに「言いにくいことを教えてくれて、ありがとうよ」と言った。

うめを帰したあと、道斎も平蔵もしばし黙ったままで座っていたが、

「親分、どう思う。ふたごで生まれるべきだったもう一人が、お咲に乗りうつるなど、考えられるかい」

「先生、そりゃありやせんや」

平蔵は小さく笑ったが、すぐに真顔に戻った。

「ただ、お咲には二つの人格があったことは確かでやすね。ずっと先にそういう男をお縄にしたことがありやした。本人は知らぬ存ぜぬと言いはりやしたが、結局やったことにはちげえねえ」

「なるほど、多重人格という訳かい」

「お咲には、男を誘う人格があったなら、あの飛騨守の三男坊がたやすく関わることも考えられやすね」

二つの人格が心に宿っていたとすれば、時々無表情でふわふわ歩いていたというお咲のことも頷ける。

だが…と道斎は腕組みをして天を仰いだ。

「ふたごのうちの一人は、本当に死んで生まれたのだろうか…」

「え…?先生はふたごの片割れが、生きているとお思いで…そりゃ、また突拍子もねえ」

平蔵と別れた道斎は今戸に向った。

「おや、その顔では首尾は上々とはいかないようだね」

おすがはそう言いながら、酒の用意をしてくれる。

「ああ、そううまくはいかねえ…」

「まあ、旦那がやきもきしなくてもなるようになるさ」

道斎は頷きながら、それでもいろいろと考えてみる。お咲を殺めたのは飛騨の守の息子だろうか、だとすると何故。どうにもそこの所が腑に落ちないのだ。

明日はお咲をとり上げた産婆を訪ねてみよう。少し酔いがまわってきた頭で、道斎は思っていた。

明け方夢を見た。お咲が若い男と一緒にいる夢だ。お咲も男も明るく笑っている。道斎がそのお咲に声をかけようとしたところで、夢は醒めた。

「何だね、夢でも見たのかえ…」

おすがには笑われたが、「もしや…は本当かもしれねえぜ」と道斎は飛び出していった。

朝早くから現れた道斎を、平蔵は驚く様子もみせず招き入れた。

「あれから、あっしも気になりやしてね。今日にでも産婆を訪ねようかと思っておりやした」

「それは…私も親分と同じことを考えていましたよ」

ふたごを忌み嫌うことはよくある。人知れず、一人を死産としたり里親に出したりする親も多いという。

「ただ、当時の産婆は何分そうとうの歳でやしょう。今も健在でいるかどうか」

「そうだなそこのところは気にかかるが…まあとにかく一度訪ねてみよう」

平蔵があたりを付けてくれたため、産婆のよねの居場所はすぐに知れた。寄る年波で今は産婆の役目は娘に譲ってはいたが、当時のことを聞くと少し躊躇った後に口を開いてくれた。

「ええ、あの時のことははっきりと覚えておりますよ。一人が産声を上げて、やれやれと思った挙句、後産かと思えばあなた、もう一人…驚いたのなんのって」

「ふたごは、二人とも生きて生まれたのかい」

「それは…」

「井筒屋の主に、死んだことにと言われたか」

「いえ、一人は小さくて息も弱くて…その時は助からないと…」

「でも、助かったんだな」

「その子はどうしたんだい」

道斎と平蔵がたたみかける。よねは怯えた目で二人を見て、頭を振った。

「もう昔のことだ、誰も咎めやしねえよ。井筒屋も咎められやしねえ。話しちゃあくれないかい」

よねの話では、その頃井筒屋で働いていた夫婦にその子は預けられ、夫婦はこの地を離れたという。

「それが、お咲さんはあの通りおかしなところのある娘で、井筒屋さんではたいそう困っておられ、もう一人の子はどうなのかとその夫婦を呼び寄せたと聞きましたが」

「なんと、井筒屋ではそんなことは、誰も言っちゃあいなかったぜ」

やっぱりあの主、狸でやしたねと平蔵は道斎に小声で言った。


井筒屋の主正衛は、平蔵と道斎の思いがけない問いに驚くほどあっさりとそれを認めた。

「私はお咲がどうしてあのようなことになったのかと、日々悩みました。ふじに至ってはもう私の手に負えないほど怯えていましたし」

お咲がふたごだったことも、ふじには話していなかったというが、母親なのだ、何らかに感づいていたとしても不思議はない。

「それで…預けた娘はどうなのかを確かめたいと思ったのか」

「いえ…あの子はもう伊作夫婦の子ですから。あれは伊作の方からお咲のことを気遣って訪ねて来たのです」

「ほう。その伊作さんとやらは、お咲さんの気質を知っていなすったのかい」

「伊作の所へ行った子は、しずと名付られて良い娘に育っていました。引き換え、お咲の奇行はますます酷くなる一方で」

お咲のことは、姉二人の縁談にも差し障りがあるため別宅に住まわせ、必要な時にはしずが身代わりになっていたのだという。

「身代わりに…?」

「はい、上の娘たちの顔合わせや祝言にはしずに出てもらい、お咲は表に出さぬようにしておりました」

正衛はその時だけは、目を落して唇を噛んだ。

「で…邪魔になったお咲さんを手にかけたのかい」

平蔵が少し気色ばった声で言った。

「め、めっそうもない。決して私共がそのような…我が娘を手にかけるようなことはありえません」

正衛は目を剥き、平蔵を睨んだ。道斎は平蔵を目で制して正衛に向き直った。

「あらためて聞きますが、お咲さんを殺めたものに心当たりはありませんか」

正衛は唇を噛み、しばらく黙っていたが、重い口をひらいた。

「お咲は…奇行がますます酷くなり、正気に戻ることは少なくなっておりましたが、時には普通の娘に戻ることもございました。そんな時はうめに晴着を着せてもらい、別宅の外を散策することもあったのです」

「それで、安西の三男坊に…」

正衛は肯き、うめからそう報告を受けたことを告げた。

「安西様の子息では、私どもも何もいうことが…ただ、お咲もその…若様のことを慕っていたのではと後になって思うのです」

正気になった時は、十八の娘である。姿の良い男に思いを寄せても不思議はない。だが、それはたとえ三男であっても、安西の家名を背負う男にとっては邪魔な存在だったのではないだろうか。

「私どもは、お咲が誰の手にかかって命を落としたのか、そんなことはもうよろしいのです。お咲は晴着を着て身罷った。それだけで…正気のままで亡くなったことが、私には救いなのです」

正衛はそこまで言って、初めて親らしく目に涙を浮かべた。

道斎は平蔵と顔を見合わせたが、二人ともこれ以上この件に関わることに意味があるのか、と自問していた。

帰り道、「やり切れないでやすね」と平蔵がいう。

「ああ…」応えながら道斎は天を仰いだ。

しばし正気に戻ったお咲は、自分で首を括ったのではないだろうか。死に場所を選ぶとすれば、慕っていた男の近くではないか。

そして、それを見つけた男が金剛寺前に骸を遺棄したなら、骸の状況についても辻褄があう。

道斎はそれを平蔵には告げなかったが、平蔵も似たり寄ったりの考えでいるのだろう。

平蔵は深見に子細を報告するといい、片町に向った。道斎はどうにも自分のやさに帰る気にならず、今戸町へ足を進めた。

おすがは三味線を三味線立てに戻しながら道斎に言った。

「捕物は終わったのかえ」

「ああ、何ともやり切れねえ結末で、気持ちよく終わったたあ言えねえが…」

「人の世ってのはそんなもんさ、四角四面じゃすみやしないよ」

二人一緒に一人の母親から生れたというのに、お咲の人生は十八で終ったが、もう一人のしずの人生は、普通の娘としてこれから先も続くのだろう。

次の日、道斎は金剛寺辺りを歩いてみた。参道の萩が一面に花を零している。侘しいがそれもまた趣がある。

帰りかけた時、その門前で一人の娘を見かけた。身形は粗末だが、その顔はその場所に骸となって転がっていたお咲そのものだ。思わず声を掛けそうになったが、かろうじてそれをこらえた。娘は人の良さそうな男と連れ立っていた。

娘はその門前にひざまづき、手を合わせた。男は少し頭を下げ、「さ、行こうか」と娘を促がす。娘はゆっくりと立ち上がり、頷いた。男がその膝あたりの土を優しく払う。

道斎はだまって二人とすれ違ったが、気分が妙に穏やかになるのを感じていた。お咲が道斎に「もうこれ以上は必要ないから」と告げているようにも思えた。

お咲としずが生れたのは、萩の花が盛りの頃の夜半だったと産婆が言っていた。そして萩の花の散り始めにお咲は死んだのだ。いや、案外お咲はこれからもしずの胸の中で生き続けるのかもしれない。道斎はもう一度振り返って二人の後姿を見送った。

今戸町に戻ると、おすがは三味の糸の調子を合わせていた。もうじき娘達が集まってくるころだ。

今夜、おすがに自分の思いを伝えよう。おすがの来し方をすべて受け入れることも…そして自分と一緒になって欲しいと伝えよう。道斎はそう心に決めていた。

おすがの答えがどうであっても……ごろりと寝転がった道斎の耳に三味線の柔らかな音色が静かに広がっていった。


 
 
 

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