養生所覚書~いのこずち~
- sakae23
- 2025年7月3日
- 読了時間: 40分
更新日:2025年12月4日
養生所は暑さが日ごとに薄れていき、はや秋の気配である。空は澄み秋の雲が爽やかに流れていく。
雪乃は洗濯物を干しながら空を見上げた。
ふたりの入所者が退所し、また新たな入所者が一人あった。毎日それが繰り返される。それぞれに事情を抱えた人の人生がある。
雪乃はそういった人の生き様に触れる時、つくづく運命の不思議を感じるのだ。秋がゆけば冬が来て、また新しい年がやってくる。人は皆その巡り合せの中でつましく生きている。
そのことが不思議であり、また嬉しくもある。
時折り養生所を手伝っているたきは先ごろ旦那を突然の病で失っていた。たきはもとは吉原の中見世で太夫を張っていた遊女だが、労咳の為に養生所へ入所したのが縁で雪乃を姉のように慕っている。たきの旦那は江戸でも大店で知られる材木問屋の主で、すでに六十を超えていたが、廓でのたきを殊のほか贔屓にし、病の癒えた後は養生所の近くの一軒家に住まわせ、自らもことあれば訪れてたきの手料理に舌鼓を打ったり、たきの弾く三味線に合せて一中節を謡うことなどを愉しんでいた。その田野屋の主が突然亡くなったことをたきは葬儀が終わった数日後に聞かされたのだ。
田野屋総衛門の息子総一郎がたきを訪ねてきたのは、総衛門の死から七日を経った日の事だった。淡々と父の死を伝え、この離れ家はたきの物としてそのまま住む事は許すが、今後一切田野屋との関わりは持たないことを申し付けた。それは田野屋総代としての当然の申し出ではあった。
「旦那様は安らかに逝かれたのですか?」
「寝ている間の大往生でした」
たきにはそれで充分だった。それでも一人になると総衛門との思い出がたきの涙を誘った。早くに父親を亡くしたたきにとって、総衛門は父親とのひとときを思わせてくれる存在であったのだ。
「家は息子ばかりで、それも堅物で、ああだこうだと煩いことこの上ない。たきのような娘がいればなぁ」
総衛門もたきを娘のように思い接してくれた。身請け金はかなりかかっただろうが、そのことをたきに話すことはなかった。
沈んでいるたきを亮之進は気遣ったが、雪乃は「そっとしておいてあげましょう」という。
ひと周りの後、たきは養生所にやってきて、薬園の手入れを手伝うようになった。
「たきさん少し休みましょう、お茶でもどうですか」
雪乃はたきを茶室に誘った。養生所には小さな茶室がある。この茶室で雪乃は時々お奉行の所望で茶を点てる。もちろん亮之進や他の医師達に点てることもあるが、雪乃がひとり心を落ち着かせる為の部屋でもあるのだ。雪乃の手で吾亦紅と竜胆がひそやかに活けてある。たきは旦那の総衛門と何度かこの茶室で雪乃の点てた茶を愉しんだ。総衛門は雪乃を並みの人では無いといい、たきに「雪乃殿を姉と思いなさい。すべてを見習って間違いはないぞ」と話すほどだった。
今、雪乃と向き合いこの茶室にいると、また総衛門を思い出す。雪乃は静かに茶を点てる。その姿を美しいと感じながら、総衛門の面影がまたたきの涙を誘う。
「田野屋の旦那様は本当にお優しい方でしたね」
点てた茶をたきの前に置きながら、雪乃はおだやかに言う。肯きながらたきは涙を押さえられずにいた。
「ほんとうに、父親のような方でした。私なんかに……なんの得にもならないのに、あんなに優しくしてくれて……私、申し訳なくって……」
「たきさん、損とか得とかではないのですよ。総衛門様はたきさんの所にいらっしゃる時が心底落ち着くとおっしゃっていました。たきさんを娘のように思っていらっしゃったのですよ」
「旦那様は幸せだったのでしょうか」
「もちろんですよ。お店も息子さん達でしっかり跡を取っていらっしゃるし、娘のようなたきさんと過ごされたこと、きっと幸せに思っておられた事でしょう、田野屋さんには田野屋さんの立場がおありのはず。あちらのことはわかってさしあげましょうね」
「ええ、私はあくまでも旦那の囲い者ですよ。立場はわきまえているつもりです」
囲い者という自嘲的ないい方が気にはなったが、雪乃はあえて聞き流した。
「雪乃様、私をこの養生所の下働きで働かせていただけませんか。旦那がいなくなった今、私には頼るものが無くなりました。どのような事でもさせてもらいますから」
たきはこれから一人で生きて行かなくてはならない。今までのように旦那の庇護のもとで、のんびりと暮らしていく訳にはいかないのだ。総衛門の急逝を知った揚屋の主から、茶酌みとして働かないかと人を通して話しがあったが、その場で断りを伝えていた。それは総衛門の望んでいるたきの姿ではないと思ったからだ。総衛門はきっと、雪乃殿のように養生所で人の役に立つ仕事をしろよ、と言うだろうとたきには思えたのだ。
「わかりました。少し時間を下さいね。たきさんのことは皆心配しております。今後のことをしっかりと話し合ってみましょう。はっきり決まるまでは今まで同様、私のお手伝いをお願いできますか」
「もちろんです。どうぞよろしくおねがいします」
雪乃のやわらかな笑顔を見ていると、心底安心する。これからの新しい暮らしが楽しみにもなってくる。たきはほの甘さのある茶を一気に飲み干した。
雪乃は亮之進にたきのことを相談した。たきの性格はよくわかっているつもりだが、賄には賄中間の他に、みつ、やえ、さだ、の三人が、使い走りには吾一と文吉がいる。今女手が必要というなら患者の面倒をみる者だ。ただ、その役割は普通の子女には過酷なものであり、医師への手助けが必要なこともある重い役回りでもある。
読んでいた書物から目をあげて亮之進は雪乃を見た。養生所の内のことはすべて雪乃が采配している。雇人のことで雪乃が亮之進に相談することは少ない。
「確かに……看病人が手薄ですから、たきさんが引き受けて下されば有難いのですが、どうでしょうか」
「たきさんはどのようなことでも、と仰っています。ただ、看病人となると大変なことも多いので、私もどうしたものかと躊躇しております」
「一度、たきさんにおいでいただき、どのような仕事かをみて頂くのが一番でしょう。その上で決めてもらうようにしましょう」
亮之進はことも無げにそう答えて、また書物に目を落とす。
「そうですね……」
雪乃は亮之進の部屋の障子を閉めながら、くすっと笑った。初めて亮之進に会った頃のことを思い出したのだ。亮之進はまだ十八歳のあどけなさの残る見習い医師であった。養生所への荷物は書物ばかりで、部屋にいる時はいつもそれを読んでいる青年だった。
「ちっとも変っていない」雪乃は小さくつぶやき、また小さく笑った。
たきは翌日も雪乃を手伝うために養生所を訪れていた。手伝いといっても薬草摘みや、洗濯物を取り入れたりで、そのお礼はお茶とお菓子、たまに中食であったりというものだ。
「たきさん。先日のお話ですけれど」
雪乃は切り出す。取入れた洗濯物を畳みながら、たきは少し不安そうに雪乃を見た。
「看病人として養生所に来ていただくと助かるのですが、どうですか」
「看病人?そんな難しいこと、私に出来るのでしょうか」
「確かに大変な役割ですが、たきさんならきっとご病人を思い遣ることがお出来だと思いますよ。一緒にお世話してみませんか」
雪乃はたきをまっすぐに見て微笑んだ。見返すたきにも迷いはないように思える。
そして、さっそく翌日からたきは養生所での看病人見習いとなったのだ。
看病人には雪乃をはじめ、中間の下男、下女があたっていたが、女の病人を看るのは女の看病人と決まっていた為、どうしても手薄となる。面倒見の良いたきはすぐに下女たちの手助けとなった。
「私……ちっとも知りませんでした。雪乃様や先生方があんなに大変な思いをしていらっしゃるなんて、何にもわかってませんでした」
雪乃は笑ってたきを見た。
たきが看る病人はまだ十五の若い娘で、廓で新造と呼ばれる遊女だったが、瘡毒を患っていた。吉原では瘡毒を特別な病としてみておらず、医者がたち入ることの出来ないものとみなされていた。当然この新造にしても例外ではなかったが、その新造萩のの養生所への入所にあたっては医師の四方鞆哉の力添えがあったのだ。
萩のは、養生所の隔離棟に入所しており、雪乃と共に、たきが萩のの看病にあたることになった。隔離棟には感染を恐れ、看病人さえあまり近寄りたがらないのが常であるが、この隔離棟にかつて入所していたたきはまったく意に介さないようだ。
「萩のさんって本当に愛らしい娘さん。でも、瘡毒を患っている女達は廓にどれほどいることか。それでも皆そのまま……萩のさんは本当に運の良い人ですね」
「四方様は、まだ若い萩のさんをどうしても見捨てておけなかったのですよ」
雪乃はたきに、萩のの事をそう話した。
「四方様が……あの方にはそういう優しさがありますものね」
たきは頷き、少し遠い目をした。四方の人のよさそうな顔を思い浮かべているのだろうか。
「そうですね」
雪乃は微笑んで頷き返しながら、自分もまた優しい面影の鞆哉を思い浮かべていた。
四方鞆哉は診回っている遊郭「松見屋」で萩のを見かけ驚いた。萩のは太夫萩の上についていた禿のはなだった。
鞆哉が萩の上と初めて出会ったころ、はなはまだ九つで、愛らしい顔立ちと賢さは際立ち、萩の上からは我が子に対するように手ほどきを受けていた。
禿から振袖新造に上がった事を、鞆哉は萩の上との別れの後ほどなくして聞いてはいた。
あれから二年、鞆哉が見た萩のの青白い肌と痩せた身体は瘡毒患者特有のものであり、鞆哉はそれを見て見ぬふりをする事ができなかったのだ。
心の臓の病と労咳の怖れがあると、養生所での加療を松見屋の主一衛門に申し付けた。このままでは客を取ることはままならない。
萩のは萩の上直々の手ほどきをうけた、これから松見屋の稼ぎ頭になると踏んでいる遊女だ。しかもまだ年季あけまでにはかなりある。
一衛門は病が癒え次第松見屋へ戻ることを条件に、しぶしぶ萩のを養生所へ預けることを承諾したのだ。
瘡毒に良い治療法はなかったが、栄養をつけ、薬草や薬根を煎じたものでいくぶん症状はおだやかになる。何よりも心の平静を保つことが大切だと養生所では考えられていた。
事実萩のは病によってその心を閉ざしていた。鞆哉が声をかけた時も、ほとんど感情をあらわすことがなかった。それは萩のの容姿をより気高く見せ、そんな萩のを目当ての客も多いと聞く。
雪乃はまだ十五の娘の苛酷な運命に、胸を痛めるほかなかった。
たきは雪乃に劣らない程、患者の面倒見のよい看病人とになりそうだ。そうであることは分かってはいたが、雪乃はたきに安堵の眼差しを向けた。
「はなの様子はどうでしょうか」
鞆哉は日に一度は隔離棟を訪れる。萩のを禿の時の名で呼ぶのは鞆哉だけだが、その名の方が萩のにはよく合っていると雪乃は思う。
「たきさんがよくお世話して下さるので助かります。萩のさんも少しずつ慣れて下さるでしょう」
「我々の力ではどうする事もできない病ですから、辛抱強く接してやって下さい。どれ、今日ははなの明るい声が聞けるかな」
鞆哉は笑顔で萩のを見舞った。
「具合はどうかな」
萩のは真っ直ぐに鞆哉を見た。美しい目だ。
「先生……」
「おお、だいぶ顔色がよいではないか。少しはここに慣れたか」
それには答えずに萩のは下を向く。鞆哉はそれ以上は問うこともなく、脈をとり、しばらくその様子に気を配り部屋を出た。
雪乃とたきは患者たちの薬草を煎じていた。薬草の匂いがたちこめて、二人をつつんでいる。
「四方様、萩のさんの様子をみてこられたのですか?今日はいくらか気分が良いようではありませんか」
たきが鞆哉を呼び止める。
「そうですね、ずいぶん顔色も良くなってきました。たきさんが心を配って下さるおかげでしょう」
たきは、いえいえという風に首を振る。雪乃は煎じ薬の具合を見て、火から下ろした。
「四方様、お茶をお入れしましょう。たきさん、私達も少し休みましょうか」
「はなは八つの時に、自ら身を売ることを父親に申し出た娘です。まだまだ幼い子がどういう思いで決意したものか……仕込まれ、九つで萩の上太夫の禿となったのも、はなが年よりも小柄だったことが幸いしたのですが、その頃はまだ、六つ七つといっても通るような子でした」
鞆哉は遠くを見るような目で話し始めた。
「まあ、そうなのですか」
たきは驚いた目を鞆哉に向ける。
たきもまた自ら廓に身を置いた娘であった。貧しい暮らしと幼い弟達の為にその身を投げ出したことに、何の悔いもないと、たきが笑いながら打ち明けた時に、雪乃は心底感じ入ったのだ。それは家の為に苦界に身を落とした、同じ境涯の自分が、たきのように思えるのだろうかと自問の思いでもあった。女は皆哀しい、哀しい故に強いのかもわからない。
「萩の上太夫のお仕込みなら、萩のさんは次の太夫と持てはやされたことでしょうね。萩の上太夫ほど、すべてに抜きん出ている太夫はいなかったのですから」
「本当に……まさに松の位の太夫に相応しい方だったと、大変な評判でしたものね」
たきと雪乃が、それぞれに萩の上のことを話題にする。
「四方様は萩の上太夫をご存知なのですか?妹の為にお大名の側室になられたと聞きましたが……」
「どうやらそのようですね……萩の上太夫らしい」
鞆哉はふっと笑って二人を見た。萩の上と鞆哉のことを知っているのは亮之進だけである。萩の上がどのような思いで身請けに応じたのかは、萩の上にしか分からない事ではあるが、
何か事情があったらしいと、突然の別れから少し経って鞆哉は萩の上の身請けの真実を知ったのだ。
鞆哉は茶を飲み干して、「さて、そろそろ初瀬殿と交代するとしましょうか」と席を立った。
その背中を見送って、たきが言う。
「雪乃様、もしかして萩の上太夫と四方様、何かあったのではないでしょうか」
「あら、萩の上太夫と四方様が?松見屋さんへは玄琢先生と出入りはされていましたが……どうなのでしょうね」
雪乃はそれ以上は何も言わず、茶碗を下げる為に腰を上げた。
「さあ、私たちももう一回りして来ましょう。患者さんが待っていますよ」
雪乃と別れて病棟を回る。たきは隔離病棟の萩のに声をかけた。
「萩のさん、どうですか?何かご用はありませんか」
萩のは布団から出て窓の外を見ていたが、小さな声でたきに尋ねた。
「わちきはいつ廓に戻れましょうか」
たきは驚いたが、微笑みながら萩のの近くに座った。
「廓に帰りたくなられましたか、良くなられた証拠ですね」
萩のはたきから目をそらし、下を向く。
「先生に伺わなくては何ともいえません。先生からのおゆるしが出れば帰れますよ、でも、焦らないで、じっくり病を治すことが大切なのですから」
「治らない病だと、わちきにはわかっているから……」
萩のは、廓言葉が時々混ざる少し特異な話し方をする。それは萩のが決して廓の暮しにそまってはいないと、自分自身に言い聞かせているように感じられる。
帰りたいはずはなかった。やっと自分の身で稼げるようになったのに、これでは年季が明けるまでに義理が果たせない。そんな風に考えているのだろうか。
その夜、たきは雪乃に萩ののことを相談してみた。雪乃は「そうですか」とたきの話に耳を傾け肯いた。
「萩のさんの胸の内はわかりませんが、四方様にもお話ししておいた方が良いでしょうね。松見屋さんではどのようなお話しになっているのかも、聞いておいた方が良さそうですから」
事件は翌日の明け方起こった。
萩のが病棟から消えたのだ。養生所ではもちろん外部からの侵入については、細心の注意を払っており、侵入者に連れ去られたとは考えにくかった。萩のが自ら養生所を出たと考えられた。明けの見回りをした雪乃が夜具が空になっているのを訝り、あたりを探したが、萩のの姿はどこにも見当たらなかった。
鞆哉は松見屋へ行き、一衛門に事のあらましを話し詫びた。もちろん一衛門は驚き、すぐさま若い者に萩のを探し出すように命じたが、鞆哉に対してはさほどの怒りをぶつけては来なかった。鞆哉は松見屋にとっては必要な医者であり、養生所もお上が係わっていることもあり、むやみに関係をこじらせたく無いという思いがあっての事であろう。
養生所でも手を尽くすことを告げて、鞆哉は松見屋を後にした。養生所に戻ると、たきもすでにやってきており、不安な面持ちで鞆哉を迎える。
「松見屋には戻っておりませんでした。何処へ行ったことか……」
雪乃もさすがに動揺を隠せない。
「私がもう少し気を付けておくべきでした。平さんにもお願いしてみましょう」
岡っ引きの平蔵も加わり手を尽くしたが、萩のの行方はわからなかった。
二日の後、松見屋の一衛門が養生所を訪れた。
「この度は私どもの不始末で、本当に申し訳ございません。松見屋殿には何とお詫びすればよいか……萩のさんの行方については、引き続いて手を尽くしておりますゆえ、何卒今しばらくお待ちください」
亮之進が頭を下げ、雪乃たちもそれに倣う。たきは目に涙をためて一衛門を見た。
「あ……いや、どうか頭を上げてくだされ。実はその事ですが、どうやらうちの若い者が関わっていると思われます」
「若い衆が?」
松見屋の男衆の内、下足番の直次の姿が、ちょうど萩ののいなくなった日から消えたのだという。
「直次と萩のが……まさかと俄かには信じられない、誰に聞いても二人が一緒に足抜けするとは考えられないというし、それでも二人が同じ日にいなくなったのは、単に偶然とは思えません」
一衛門の話では、直次は十八になったばかりで、松見屋に来て三年、いつまでも下足番ではと考えていた矢先の事だったらしい。
「若い者にも二人の行方を探させております。郷に戻ったのではと思い、萩のの郷には人を遣りましたが、それらしい女はおらず、直次の方はみなしごで戻る郷がありません」
思わず涙を流すたきの背を、雪乃が優しく撫でる。
一衛門を送り、一同は力が抜けたように座り込んだ。あの萩のが若い衆と足抜けをはかるとは考えられなかった。見つかれば二人にどのような仕置きが待っているのだろうか。これ以上、萩のを探すことは二人にとって良い事なのか。
「萩のさんにはまだ長く年季が残ってますよね……」たきがいう。
「はな……いや萩のは新造になったばかりです。客を取り始めてまだ浅い。ここに入所させたのは間違いだったのかもわからないですね」
鞆哉は沈んだ声でそう答える。良かれと思った事が裏目に出た。結果、まだ幼い二人の心に芽生え始めた恋慕の思いに、火を点けてしまったのでは、鞆哉にはそれが悔やまれた。
松見屋は大見世ではあるが、一衛門は比較的穏やかな主で忘八と呼ばれる男達の中にあっては異色で知られている。それでも足抜けに関してはやはり厳しく罰するだろう。特に直次に対しては血の気の多い男衆の、どれだけの怒りを買うものか。雪乃も亮之進も、たきもまた同じ思いで胸を痛めていた。
萩のたちが姿を消してふた周りが過ぎたが、二人の姿はようとして知れなかった。
まだ幼さの残るふたりである。まして萩のは着の身着のままだ。人目に付かないはずがない、見つかるのは時間の問題だと誰もが考えていたが、どういう訳か、二人は神隠しにあったように消えてしまったままだった。
「たきさん、顔色がすぐれませんね。あまり考えすぎないようにしましょう。萩のさん達はどこか遠くの郷に逃げのびたのかもわかりません」
「それはどうでしょうか。二人はもう……そう考えると私……」
雪乃はたきの肩をぽんぽんと叩き、「悪いことは考えないことですよ、たきさん」
と微笑む。雪乃にしても萩のの行方が気にならない事はない。それでも養生所には自分達の助けを必要とする人が大勢いるのだ。気持ちを切り替えなくてはいけない。
それは鞆哉にしても同じであった。
萩のがいなくなっても、養生所へは病人がやってくる。手を抜く訳にはいかなかった。雪乃も亮之進も日々の仕事に没頭することで、萩の達への思いを紛らわしていた。
「私は雪乃様たちのように、気持ちの切り替えがうまくできません」
たきは病棟の診まわりを終えた鞆哉にいう。雪乃は年老いた患者の部屋へ行ったきり帰ってこない。
「たきさん、少し歩きませんか」
鞆哉はたきを誘い、たきもそれに従った。千川への道を二人はただ並んで歩いた。
「人の心は、わからないものですね。何がその人にとって幸いなのか…私は簡単に考えすぎていたのかもわからない」
たきは「そんな……」とつぶやき、鞆哉の顔を見た。鞆哉は少し笑ったが、また黙って歩き始めた。
「四方様は良いことをされたのですよ。もう少し私が気を付けていれば……それが悔やまれてなりません」
たきはそう言って、また涙ぐんだ。廓へ帰りたい、そんな風に言った萩のの事を、真剣に考えて早く相談すべきだったと、それが何よりもたきに悔いを残させた。萩のは直吉と一緒に死を選んだのではないだろうか。たきも鞆哉も胸にある同じ思いを、口に出来ないまま、だまって堤を歩き続けた。
「松見屋でも手を尽くして探したが見つからず、平蔵親分も、それらしい男女の事は人の口にものぼらないと言う。雪乃殿の言われるように、遠くの郷へ逃げのびたのかもと思いたくなりました。一衛門殿には申し訳のないことですが」
鞆哉が足を止めて、たきを振り返った。
「そうですね……雪乃様の言葉は不思議とその通りになることが多いのですもの。萩のさんは直吉さんと幸せになったのだと、思った方が良いのかもわかりません」
たきは初めて微笑んだ。
「あら、こんな所に桔梗が」
養生所では薬草として使われる桔梗が、草花にまぎれて咲いている。その儚げでそれでも凛と立つありさまが、たきの胸を打つ。
「桔梗か、ひっそりとした美しい花ですね」
「萩のさんのよう……」
二人は顔を見合わせて小さく笑った。
養生所に戻ると、雪乃が亮之進に茶を入れている所だった。
「お二人ご一緒だったのですね。ちょうど良かったお茶をお入れしましょう」
亮之進は鞆哉とたきを交互に見て、「ほう!なかなか……」と言いかけてやめた。
「なかなか、何だ?」
鞆哉は亮之進を軽く睨んで座った。雪乃はくすっと笑い、たきは顔を赤らめる。
雪乃はコホンと咳払いをして鞆哉に向かって、気にかかる病人のことを告げる。
「よねさんですが、少し心の臓が弱っておいでのようです。玄琢先生にもお話しするつもりですが、後でもう一度四方様にも診て頂ければと思いますが」
「わかりました。今は落ち着いているのですね」
「はい、今は眠っておられるようですから、夕刻の診まわりの時でよろしいかと思います。よろしくお願いいたしますね」
亮之進は苦笑いし、茶を飲み干した。いつもの養生所の他愛のないひと時が過ぎて行く。
萩ののことを忘れた訳ではなかったが、時がたつにつれて、このままの方が萩のと直吉にとっては幸いなのではないか……雪乃も亮之進も口には出さないが、頭のどこかでその思いが大きくなっていく事に戸惑いを覚えていた。
鞆哉が玄琢の所へ行き、たきがひとまず自宅へ下がったあと、雪乃は亮之進に切り出した。
「実は、平さんから気になる報せを受けておりました」
亮之進は目をあげ雪乃の次の言葉を待った。
「下谷の仙龍寺近くの若い夫婦の所に、二周り程前から若い娘さんがいるようだと……」
「下谷?娘は一人なのですか」
「そうらしいのです。萩のさんなら二人で匿われているのではと思うのですが、夫婦は郷から来た妹だといい、平さんもあまり深く立ち入る訳にもいかないらしくて、でもその若い夫婦というのが……」
雪乃は一旦言葉を切って、少し言いよどんだあと、続けた。
「あの……萩の上太夫の、身請けの元になった二人らしいと、平さんはいうのです」
「萩の上太夫の妹か……」
亮之進はう~むと腕組みをして天を仰いだ。
「平さんには、まだ、他言しないようにとお願いいたしました。四方様やたきさんにはいずれ折りをみて話さなければと思っておりますが」
「どちらにしても、一度様子をみに行く必要はありますね。養生所で預かっていた病人ですから、このままという訳にはいかないでしょう」
そうですね、と答えながら、雪乃はうつむく。出来るのならこのままそっとしておきたい、それは許されない事だとわかってはいるが、雪乃の胸の中ではその思いが強まっていく。
「とにかく、一度平蔵さんに仔細を聞くことにしましょう。萩のさんでないならそれで良いことですし……直吉さんも一緒ではないようですからね」
亮之進は雪乃に言って、安心させるように微笑んだ。この笑顔に雪乃はいつも助けられる。
「はい、平さんにお越しいただくようにお話ししましょう」
雪乃も微笑んで、そう答えた。
弥吉の仕事道具を整えながら、きわはまだ眠っている娘をそっと窺う。突然この娘がやってきた時、心底驚いたが、娘が姉の手ほどきを受けていた禿だとはすぐにはわからなかった。ただ、怯えたように男の陰に隠れるようにしているこの娘は、あの時の自分と同じだと思った。男もまだ若く、理由を聞く弥吉に、娘は萩の上の禿だったと言い、しばらく匿って欲しいと頼んだ。男は今は二人でいると逃げ延びることは難しい、自分は出来るだけ遠くへ逃げ延びて、ほとぼりが冷めた頃に必ず迎えにくるというのだ。廓の掟は厳しい。無事に逃げ延びることが出来るのだろうか。きわは黙って聞いていたが、胸の中は暗澹とした思いに満ちていた。ただ、姉みきに繋がりのあるこの娘を見捨てるわけにはいかなかった。それは弥吉にしても同様であった。何度も娘を頼むと言い残し、男は明け方の辻に消えていった。
「はなさん、目が覚めたのね。朝餉の仕度を手伝ってね」
ここにきて二周り、やっとはなはきわに対して心を開きはじめていた。岡っ引きが一度はなの噂を聞いて訪ねてきたが、妹だと偽った。廓だけでなく、町方にも手が回っていることに動揺したが、きわは必ずはなを助けると決めていた。
「太夫は直さんに町に行くことがあれば、妹の様子を知らせて欲しいと頼みました。落合様の所へ行く前のことです。それでここがわかりました」
はなは何日目かにきわに話した。きわはみきに返しきれない恩を受けていた。今のこの暮らしがあるのもみき……萩の上太夫の計らいがあってのことと身に沁みてわかっている。
「いい?直吉さんと所帯を持つんでしょ。町の暮しは廓とは違うの、早く起きて身支度を整えてちゃんと朝餉の仕度もすること、いつ直吉さんが迎えにきてもよいように、さあ、早く顔を洗ってらっしゃい」
実際にはなは、きわにとって妹のような存在になっていた。
きわには妹はいないが、一つ違いの弟がいる。今では呉服問屋の手代として働いていると風の便りに聞くだけで、会ってはいない。弥吉は一度会いに行くように言うが、きわにはどうしてもそれが出来ない。姉であるみきの自由の身になる機会を奪った自分に、そんなことは許されない、きわは頑なにそう言って、唇を噛んだ。
はなは十五、弥吉はずっと昔に死んだ妹とはなを重ねあわせていた。弥吉の妹は十四で亡くなったが、はなと良く似た目をしていた。思い出せるのはそんな所だけだが、弥吉もまた、ここ二周りで、はなを本当の妹のように思い始めていた。
口数は少ないが、はなは自分の身の上を少しずつ話すようになっていた。貧しさから父親に身売りを申し出た事や、郷には父母の他に弟がいることなどをぽつりぽつりと話す。自分がしたことで、郷のふた親はどんな裁きを受けるのか、そのことが何よりも気がかりだという。後先を考えることができなかった、そんな若いふたりの気持ちが、誰よりも痛い程わかるきわと弥吉である。
「はなさん、大丈夫、落ち着いて考えれば何か良い知恵も浮かぶわ、とにかくあなたは私の妹、みち。いいわね、誰に聞かれてもそう言い通すの」
今日も岡っ引きに声をかけられた。妹はもう明日には郷に帰るというと、それ以上詮索はせずに帰っていったが、ある娘を探している。近いうちにまた仔細を聞かせてもらうと言い置いていったのだ。
「平さん、御足労をかけましたね。下谷にいる娘さんは、その後もまだ?」
「様子をみてまいりやしたが、どうやらそのまま居ついているようで……女房に聞くと妹だと言い張り今日明日にも郷に帰るのだと、取りつく島もありやせん」
平蔵はすまなそうに頭を下げるが、雪乃は平蔵がこの萩の探しへの深入りを避けていることを、薄々感じていた。平蔵には十八になる娘がいる。暮らしの為に苦界に身を投じる娘、かどわかしに遭い廓に売られた娘のことをごまんと見てきた。自分の娘とさほど歳の違わない娘の哀しい生き死にも目の当たりにしてきた。そんな平蔵だから、もしもその娘が萩のであったとしても、それを明らかにしたくはないのではないか。そんな平蔵の気持ちが雪乃には手に取るようにわかるのだ。
「初瀬様が一度その方にお会いになりたいそうです。近い内に平さん、案内していただけるとよいのですが」
「わかりやした。先生のご都合のよい時に、声をかけてくだせえ」
平蔵はそう言って、足早に帰っていった。
「平蔵親分、何でしょう?萩のさんのことで何か分かったのでは?」
入れ違いにやってきたたきが雪乃に尋ねる。雪乃は実は……と下谷の娘の事をたきに話した。
「まあ、もしもその方が萩のさんだとすると、直吉さんはどうしたのでしょう」
「そうなのです。それで、平さんも人違いではないかと言われるのですよ」
「でも、それが萩のさんだったら、うれしい……」
雪乃は思わずたきを見た。たきは萩のが無事でいることがうれしいという。それが真っ当な考えだと、雪乃はつくづく思う。
第一は病人の無事。自分はそれを忘れて、その娘が萩のでないことを願った。萩のがすでに直吉と……その方がふたりにとっては幸せなのではないか、そんな事まで考えてしまった。そうなのだ。その娘が萩のであれば、萩のの無事ははっきりする。そして、それは廓の掟破りの罪を架せられ、廓へ戻されることをも意味する。雪乃はそのことを恐れたのだ。
でも、たきは萩のの無事がうれしいという。素直に萩のの無事を喜ぶ。そんなたきが雪乃には眩しく思える。
「四方様には?」
「いえ、まだお伝えしていないのですよ。初瀬様がお話しされるとは思いますが、いずれにしても、松見屋さんにこの事が知られる前に、一度娘さんに会ってみる必要があるでしょうね」
たきは頷いて、薬草を煎じはじめる。ほろ苦い匂いが部屋中に広がると、養生所の一日がはじまると雪乃は思う。
「たきさん、私は、よねさんの部屋を見てまいります。四方様がいらっしゃったら、お願いしますね」
「わかりました。よねさん、いかがですか?」
「昨夜は少し眠れたようで、安心しました。玄琢先生はあまり良くないとおっしゃるのですよ」
「そうなのですか。心配ですね……」
雪乃が部屋を出た後も、何種類かの薬草を調合し煎じる。この薬で何人もの病人を救えるかもわからないと思うと、自然にその手に力がこもる。
「たきさん、おはよう」
「あら、四方様、おはようございます。今、お茶をお入れしますね」
「雪乃殿は病棟ですか?」
「はい、よねさんの所へ……心の臓が弱っておいでのようですね。お年でもあるし、心配です」
「そうですね、後で私も寄ってみましょう」
茶を鞆哉の前に置きながら、たきは平蔵が見つけたという娘について切り出した。
「先ほど、平蔵親分が見えてました。どうやら萩のさんらしい娘さんが見つかったようです」
「えっ、本当ですか。本当にはななんですか?」
「まだ確かではないようですが、初瀬様からお話しがあると思います。萩のさんなら良いですね。でも……もしそうなら、二人はどうなるのでしょう」
「それは……松見屋にも知らせなくてはいけないでしょう。直吉も一緒でしょうか」
「娘さんは一人のようです。それで雪乃さんは別の娘さんではないかと言われます」
鞆哉は頷いて、
「それでは、雪乃殿たちの話しを待つとしましょう。初瀬はああ見えて頼りになる男ですから」
と少し笑った。
亮之進はその日の内に鞆哉を自分の部屋に呼んだ。下谷にいるという、萩のかもわからない娘のこと、その娘が匿われているのは萩の上の妹の所であるということを話した。
「偶然とは思えない。萩の上太夫の妹夫婦の所へ身を寄せているのは、間違いなく萩のだろう。直吉はほとぼりが冷めるまで、別の所に逃げているものと思うが、さて……どうするかだな」
「うむ、先ほどたきさんから、その娘のことを聞いた時ははなではないかもしれぬと思ったが、萩の上の妹の所なら、十中八九間違いないであろうな。松見屋に知られる前に何とかならぬものか」
二人は天を仰いだ。何とか助けてやりたいが、廓の中の事に手を出すのはご法度とされている。何か良い知恵はないものか……夕餉の仕度が整ったと、たきが呼びに来るまで時を忘れて二人は話し合い、取りあえずは、その娘に会いに行くことだけを決めた。
「平さんは、いつでも声をかけるようおっしゃっています。明日にでもお出かけになられますか」
雪乃は二人の顔を見てそう切り出す。たきは思わず雪乃を見た。雪乃には、まるで二人の話しが聞こえていたかのようだ。
「そうですね。明日の夕刻にでも行ってみましょう。平蔵さんにそう伝えて下さい」
病棟を回り終え、たきは鞆哉と養生所を出る。鞆哉は伊佐玄琢の元へ向かうのだが、その途中にたきの住まいがあるため、わざわざ回り道をして、いつもたきを送ってくれるのだ。
「明日、下谷に行かれるのですね。その娘さんが萩のさんなら……連れ戻されるのでしょうか」
「廓には廓の掟がありますから、さて、どうしたものか……」
鞆哉は口数少ない男だが、一緒にいると総衛門といた頃のような安心感をたきに与えてくれる。
「初瀬様も四方様も、そうおっしゃりながら、きっと何か良いことをお考えなのでしょう?本当は私心配しておりません。上手くいくにきまってますから」
「かいかぶりですよ、たきさん。娘がはなで無い事を祈っているようなありさまですから」
鞆哉は笑って応える。
鞆哉の笑顔は、たきの胸の中に、澱のように溜まった心細さや寂しさを、少しずつ薄れさせてくれるのだ。いつものように、礼を言い、鞆哉と別れて一人の部屋に戻ったたきは、総衛門の思い出の残る部屋を見回した。
離れ家は総衛門好みの設えである。さほど広くはないが、いたる所に総衛門の気遣いが生きている。娘のいない総衛門が、実の娘に対するような気持ちをたきに対して抱いていた証といえるだろう。
「旦那様に、私は何もしてあげていなかったのに……」
そう悔やむたきに、雪乃はたきといたことが、総衛門にとっての幸せだったという。廓の女達は手練手管で客を繋ぎとめる。廓に入った時から、それを身体に叩き込まれた。たきにはそれがどうにも我慢できなかったのだ。
「おやおや、お前さんは、身体中から刃の先のような棘を突っ立てているじゃあないか」
初めて会った時、総衛門は笑いながらそう言った。たきは振袖新造であった。
萩のも新造となり、客を待つ身となった……萩のの胸の内が、たきには手に取るようにわかるのだ。自分をこの場所から連れ出してくれるのなら、誰でも良かった。
たきが身を委ねたのは、総衛門で、この事は後々のたきにとって、この上のない幸せであったのだが、総衛門が身請けを見世に申し出た時、たきはすでに太夫の座にあったものの、労咳を病んでおり、見世としても、それは願ってもいないことであったと思われる。まだまだ先の長い萩のにとっては、一緒に足抜けをしてくれる、その言葉が何よりも救いの言葉であったのではないか。
その夜は寝床に入ってもなかなか寝付かれず、たきは障子を開けて空を見上げた。下弦の月が美しく柔らかな光を放っている。
「まあ、何とかなるでしょう。たきさんは心配せずにお休みなさい」
鞆哉は別れ際にそう言った。
「おやすみなさいませ……」
月に向かってたきは小さくつぶやく。それは総衛門に向かってのものか、鞆哉に向かってのものか、たきにも分からなかったが、不思議とたきの心は穏やかになっていった。
平蔵は朝早くから養生所を訪れていた。雪乃から下谷の娘の所への案内を頼まれた為である。雪乃の淹れてくれた茶を飲みながら、亮之進を待っているが、心中は穏やかではなかった。
「平蔵さん、朝早くから造作をかけます。まもなく四方もやってくるでしょう、今しばらくお待ちください」
仕度を整えた亮之進が、平蔵に声をかける。
「四方様も行かれますか。あの……もし、娘が萩のなら、どうなるんでしょうかね、どうにもそこの所が気がかりで」
「そうですね。まずはその娘に会ってから、考えましょう」
ほどなく鞆哉もやってきて、三人は出かけていった。雪乃とたきはそれぞれの仕事につく。
下谷へ向かう間、三人は無言で歩いた。十中八九萩のに間違いないという思いと、娘と向き合った時に、何をきり出せばよいのか連れ戻すべきなのか、などの様々な思いが、それぞれの胸にうずまく。
その裏店に着いたのは日も高くなったころである。まずは平蔵が娘のいる家に渡りをつける為に、ひと足先に訪れることにした。
「娘が萩のだとして、さて……どうしたものか」
「初瀬、その事なのだが、何とかはなを助けたい。萩の上の妹の所なら、はなであることは間違いなかろう。だが、そこにいるのははなではないのだ。萩の上の下の妹だ。郷から姉を訪れた、それでよいのではないか」
「四方……それは……」
平蔵が戻ってきた。二人は顔を見合わせ頷いた。萩の上の妹の住まいは、裏店の一番奥の店で、店の中でも特に日当たりの悪い場所にあったが、さっぱりと掃除が行き届いていて、湿っぽさはなかった。
突然の訪問を、わかっていたかのように、きわは慌てることなく三人を受け入れた。弥吉は仕事の為に早朝から出かけており、きわ一人のようにみえる。
「養生所の初瀬と申します。こちらは四方…松見屋へ出入りの医師です」
「まあ、松見屋さんの……私は以前三益屋におりました。廓のことはいくらか分かっているつもりです」
「で、今日は妹さんはどうしなすったね」
「ああ、みちですか。みちは郷に戻りましたよ。はなからそう長くいるつもりはなかったのですよ。あの子は近々祝言を挙げるのですから」
「ほう、祝言を」
「直吉はいつ……」
「え……?」
「婿殿が迎えに来たのですね。それで一緒に戻ったのでしょう」
鞆哉はきわの目をまっすぐに見て言った。その目にある萩の上の面差しが、鞆哉の胸を熱くする。三益屋の白菊は弥吉と廓を足抜けし、萩の上の計らいで今の穏やかな日々を手に入れている。それが鞆哉の描いていた、萩の上との暮らしを無きものとしてしまった、そのことをこのきわは知らない。
「ええ、婿は気の良い優しい男ですから、うちの人とどこか似ていて……」
「妹御は、幸せになられましょうか」
「幸せに……?なりますよ、きっと」
「初瀬、どうやら人違いだったようだな」
鞆哉が亮之進を振り返っていう。亮之進はだまって頷く。平蔵はしゅんと洟をすすっている。岡っ引きにしては気の優しい男である。
誰もが、その娘が萩のだとわかっていて、それでも萩のではなく、妹であるというきわを信じた。
「まあ、それではその娘さんは、萩のさんではなかったのですか……」
雪乃は二人の報告に、何故かほっと胸をなで下した。たきは少しがっかりしたようであったが、夕餉の仕度に戻った。
「直吉は生きる手立てを見つけたのだろうか。ふたりが暮らすだけの」
亮之進は鞆哉を自室に誘い、そう切り出す。
「あの、白菊……いや、きわはなかなかのしっかり者だ。突然の事に少しも動じるところがない。そのうえ弥吉は腕の良い庭師だ。直吉に仕事の渡りをつけているだろうさ」
「それにしても、妹とはいえ本当に萩の上に似ているな。どきどきしたぞ」
「ああ……俺もどきどきした」
鞆哉はあははと笑ったが、その胸に刺さった小さな棘は、まだかすかな痛みを伴って残っていた。
「四方様、下谷の娘さんは、本当に萩のさんではなかったのですか。その娘さんに会われたのですか」
たきは養生所からの帰り、いつものように送ってくれる鞆哉に問いかけた。
「はい、はなではありませんでした。娘はその家の女房の妹で、もう郷に帰ったあとでした。我々はその女房の言葉を信ることにしたのです。はなではない……と」
「松見屋さんは、まだ二人を探しているのでしょうか」
「そうですね、はな……いや萩のは松見屋の萩の上の手ほどきを受けた禿で、近頃やっと新造になったばかり、これからが稼ぎ時だったのですから、松見屋としてもみすみす見逃すわけにはいかないでしょうね」
「養生所に何か咎がありましょうか」
「たきさん、大丈夫ですよ。松見屋もそのあたりの所は心得ているでしょうよ。心配には及びません。それに、初瀬や雪乃殿にも考えがあるようです。しばらく様子をみましょう」
「そうですか……良かった。四方様、お時間があればお茶を一服差し上げたいのですが、よろしければ、どうぞお寄りくださいませ」
「今日は一日暇を貰っています。迷惑でなければ」
たきの離れ家は、総衛門が亡くなってからは訪れる人もなかった。総衛門がいた頃には、三味線にあわせて唄う声や、たきの作る料理を愉しむ総衛門の声、たきの笑い声で溢れた家であったのが、嘘のように静まりかえっている。
総衛門好みの茶室は、狭いが上等の木材が使われており、設えも簡素ではあったが、心底落ち着く、たきの好みでもあった。
「良い部屋ですね」
鞆哉は心底そう思った。華美でなく、それでいて品位のある落ち着いた設えが、気持ちを和らげてくれる。
「私ね、自分の身の上って、どうしてこんなんだろう、といつも考えてました。貧乏で父親も母親も一生懸命働いてるのに、どうして……って」
たきは茶を点てながら、静かに話す。
どんなに貧しくても、食べられる内はまだ良かった。父親が病気になり、食べることさえ満足に出来なくなった時、たきに出来ることは、自分に替えて少しの金子を家に残すことだった。まだ十一のたきの申し出を、父親はだまって受けた。
売られたのは、吉原の中見世だった。太夫となる為の手練手管を、遣り手から折檻と共に身に付けられた。それはとうていたきの我慢の限界を超えていたが、歯向うだけの気力はとうに失っていた。
「旦那は、私を人として扱ってくれる、唯一の大人だったのですよ。私のように可愛げのない女のどこがお気に召したのやら」
そういってい、たきは笑った。たきの点てた茶は、ほんのりと甘さを残し、すっきりと鞆哉の喉を潤した。
「はなも同じような身の上でした。そして萩の上も、自分と似た境涯のはなを、殊のほか愛しんでいたと思います。人にはそれぞれ、忘れようとしても、消す事のできない来し方があるものです」
「四方様にも……?」
鞆哉は母の顔を思い浮かべた。同時に兄の顔も。何故このような理不尽がまかり通るのかと、神仏を恨んだ日が蘇る。
「人はどんなに人を恨んでも、憎んでも、結局人の温もりに助けられる。自分の境涯がどうであっても、それは同じことではないでしょうか」
たきはだまって肯く。明障子から月の淡い光が差し込んでいた。
萩のたちが姿を消してふた月が経った。松見屋の一衛門は追手を出すことを諦めたと養生所を訪れて話した。萩のと直吉は二人で命を絶ったのかも分からない、これ以上探すのは無駄なようだと一衛門は苦々しい顔でいう。鞆哉は神妙な顔で肯き、不行き届きを詫びた。亮之進と雪乃も頭を下げる。
「萩のが先か直吉が先か……とちらにしても手前どもは大損ということです。萩のは萩の上以上の御職を張れる太夫になると、それなりに金も掛けてきましたから……あ、いや四方様をどうこういうつもりはありませんとも、まあ、仕方ないことで……」
「一衛門殿、萩のさんは私どもの患者さんで、それがこのような事になりましたことは、たぶんに私どもにも落ち度があったと言わざるを得ません。奉行にも今回の事は伝えて、沙汰を待ちました」
「奉行に……?」
亮之進は頷き、そして雪乃に向き直り、奉行の書状を一衛門に渡すよう促した。
書状を読んだ一衛門は、「了承いたしました、と奉行にお伝え願いたい」とその書状を雪乃に返し、養生所を後にした。
「書状にはどのような事が書かれていたのでしょうか」
一衛門が帰った後、たきは鞆哉に聞いた。
「雪乃殿が、お奉行に何か注進されたらしく、お奉行直々に養生所の不手際の詫びと、今後松見屋での治療、養生所への入所から薬料に至るまで、すべてに便宜を図る旨が記されてあったようです」
「まあ、そんなことを直々に……」
雪乃はさる旗本の息女であったが、父親の失脚により婚家を追われ、苦界に身を沈めた後、養生所の為に尽くしている。その人となりは奉行にも一目置かれていた。奉行は度々養生所を訪ねては雪乃に茶を所望する。子に縁の薄い奉行にとって、雪乃は娘とも思える存在であった。
「私は旦那のおかげで、廓を出ることができましたが、どこか女であることを、廓の女でいた事を卑しいと思う気持ちがずっと消えずにいたのですよ。でも、雪乃様に出会って、それは間違っていると、女にもまだまだ人の為に出来ることがあると教えられました。雪乃様って、決して人の前に出て何かをされる訳ではないのに、皆にとって一番良い方法を常に考えていらっしゃるでしょ」
「そうですね……我々も、雪乃殿にはとてもかないません」
たきは笑って肯く。
「あの……四方様、私に医術のことや薬草のこと、教えて下さいませんか」
「え?医術のこと、ですか」
「文吉さんは初瀬先生に、医者になる為の教えを受けておいでです。まだ十三の文吉さんが、本当に熱心に、学んでおられるのですもの。私もたくさん知りたいのです」
「たきさんは、医者になりたいのですか」
「そんな大それたこと……私はただ、雪乃様のようになれたらと、私には知らないことが多すぎますもの」
たきは頬を赤らめてうつむく。
「いいですよ。私の知っている事なら、何でも」
鞆哉は柔らかく笑って、たきを見詰めた。
「お気づきになっておられますか」
夜の見回りを終えて、自室に戻ろうとする亮之進に、雪乃は声をかけた。
「何にですか」
「四方様とたきさんのこと……」
「四方と?」
亮之進はもう一度座り直して、雪乃を見る。
「ええ、たきさんは四方様に、薬草の事などを教わっておいでです」
「玄琢先生の所へ行かない日に、お教えしているのでしょう。たきさんにも良いことではないですか。ふたりは、その……互いに心を開いているように見えますし」
「それは、願ってもいないことです。たきさんはなかなか田野屋の旦那様を思いきれないようで、心配しておりました。ただ、四方様の方はたきさんをどう思っておられるのか……たきさんは、元は廓で御職を張る太夫でした。辛い思いもしております。もしもまた、悲しい思いをする事があってはと、それが気掛かりなのです」
「雪乃殿、四方は、あれでなかなか出来た男です。たきさんの方こそ、四方に対してどんな風に思われているのか、私にはそれが少々気掛かりですが」
まあ、と雪乃は少し眉をひそめる。
「亮之進様は、たきさんのことをどのように思われているのでしょう。たきさんは……」
「わかっておりますよ」
亮之進は雪乃の言葉をさえぎって笑った。
「私も四方も、人を来し方で見たりはしません。人を見る目は雪乃殿と同じようにあると思っています。たきさんの人柄に不足などありませんよ。ただ、四方は以前、将来を決めた相手に突然去られたことがあるので、私としても、つい慎重に考えてしまうのです」
「まあ、そのような事がおありだったのですか。四方様は、他にも辛い過去をお持ちと聞いております。たきさんなら、きっと良い支えとなって差し上げられる。私はそう思っております」
亮之進は大きく肯き、雪乃を見た。その視線をそっとはずして、雪乃は亮之進の前に淹れ直した茶を置く。
「もう、冬がそこまで……良い季節はあっという間ですね。萩のさんたちが、寒い思いをしなければ良いのですが」
雪乃は障子を開けて空を見上げた。美しい月が闇夜を照らす。星もいつもに増して瞬いているように思えた。
萩のが姿を消して一年が過ぎた。養生所では変わらぬ日々が続いている。春まだ浅い如月の初め、鞆哉は萩のの文を受け取っていた。養生所への無礼を詫び、萩の上の郷で直吉と所帯を持ったことが綴られていた。萩の上譲りの美しい文字は凛としており、暮らしの正しさを現わしているように、鞆哉には思えた。
「それにしても、萩のさん…いえ、はなさんが無事に逃げ果せたことは、何よりでございましたね。四方様、もしかして、あの下谷の娘さんは、はなさんだったのではありませんか」
文を読み終えたたきは、鞆哉を見てそう言った。鞆哉は肯定も否定もせずに笑ったが、今となっては、それはどちらでもよい事ではあった。
その後も玄琢の手伝いが無い日のたきへの手習いは続いている。薬草の事、人の体の事、医術の事、たきはそれらを、鞆哉さえも驚くほど吸収していった。
「もう一年……萩のさんの無事もわかり、安心しましたが、あのお二人は、まったく」
雪乃は夜の見回りを終え、帰っていく鞆哉とたきを見送りながらため息をついた。
亮之進は「えっ」と雪乃を見る。いつまでたってもはっきりしない二人に、雪乃はやきもきしているのだ。
「まあ、まだ一年ですから……」
そう言うと亮之進は広げた書物に目を落とした。雪乃はもう一度ため息をついて、部屋を出る。明日こそはたきさんに伺わなければ……そう心に決めて月明かりの廊下を急ぎ足で自室に向かった。
「初瀬様は、ずっとお一人でいらっしゃるおつもりなのでしょうか」
夜道を歩きながらたきが鞆哉に訊ねる。
「さあ、どうなのでしょうね」
亮之進の気持ちを知っているのは鞆哉だけである。
「私ね、初瀬様は雪乃様を……と思っていたのですけれど、近頃、わからなくなりました。雪乃様はご病人の事なら何でもおわかりなのに、殿方の事はまったく頓着なさいませんもの」
「そのようですね。それがまあ、雪乃殿らしい所ではありますが……」
鞆哉は苦笑いをかえし、たきは頷く。
「今夜は少し冷えてきました。四方様、お風邪などめされませんように、お気をつけください」
「たきさんも……」
離れ家が近くなると、二人の会話は自然に途切れがちになる。いつものように、垣まで送り、鞆哉はそれでは、と背を向けて歩きだす。
「あら、裾に」
たきの声に振り向くと、たきは鞆哉の裾に何かが付いていると言う。追ってきたたきはしゃがんで、それを指でつまむと、鞆哉に見せる。
「いのこずちか……」
いのこずちの小さな草の実は、人や獣に付いて、わが身を運ばせ根付くという。
「いのこずちも、寂しいから人に付くのかしら」
たきの寂しさが鞆哉の胸を突く。
「たきさん、茶を一服頂けませんか。このいのこずちを、庭の隅に植えてやりましょう」
二人は庭の片隅に小さな浅い穴を掘り、いのこずちを植えた。
いそいそと茶の湯の支度をするたきを、鞆哉の柔らかな眼差しが包む。
鞆哉は、一瞬その姿に母を重ね、自らに父を重ねた。
母上、そろそろ私も一人は寂しくなりました。胸の奥でひとつの思いが強く固まっていった。
そのころ、養生所でも二つの思いが時を紡ぎ始めている。
「亮之進様、今夜は少し冷えてまいりました。暖かくしてお休みなさいませ」
「はい、雪乃殿も……お休みなさい」
亮之進は文机の上の小抽斗から、渡せないままの簪を取出して、しゃらしゃらと振ってみた。雪乃が最後の見回りの為に歩く、廊下の音が微かに聞こえている。
もう一度「おやすみ……」と呟き、亮之進は簪をそっと小抽斗に戻した。 了

コメント