養生所覚書~若葉風~
- sakae23
- 2025年12月3日
- 読了時間: 40分
四方鞆哉とたきが所帯を持って、二年目の春である。
雪乃は朝の見廻りを済ませて自室に戻った。 近頃、体調が思わしくないようで心配していたたきから、子が出来たらしいと昨日打ち明けられた。しばらくは無理をしないようにと伝えたが、たきは休まず養生所に来させて欲しいという。鞆哉も雪乃と一緒なら安心だからと、それを許したらしい。
雪乃はたきが初めてこの養生所に来たときのことを思い、今のたきの幸せを心から嬉しく思うのだ。 それと同時にふといいようのない寂しさを感じることに、雪乃は自分でも戸惑う。
養生所での毎日の暮らしに不足はないのだ。雪乃はそんな思いを振り払うように、障子をあけた。まだ冷たさは感じるが、春らしさを纏って心地よい風が吹き込む。
「さあ、今日も一日頑張りましょう」誰に言うともなしに声に出し、雪乃は空を仰ぐ。 間もなくたきがやってくるだろう。無理の無いように、今日の段取りを決めておかなくては…雪乃は障子を閉めて文机に向かった。
初瀬亮之進は奉行から話があると呼び出されていた。急ぐ用事では無いので、都合の良い時にと言われていた為、今日あたり奉行を訪ねるつもりである。
奉行の話とは何なのか、亮之進は正直不安を隠せずにいる。いつも奉行には驚かされたり、気を揉ませられたりすることが多いのだ。
四方鞆哉にそのことを愚痴ると、
「また、世継ぎ問題に関わるご依頼やも知れんな」と笑われた。
自分は医師で人探しは勘弁して欲しい、とも言えない。まして人の人生に関わることなどごめん被りたい…とも言えない。亮之進の気持は少なからず塞いでいるのだ。
今朝は比較的患者も落ち着いているし、まもなく鞆哉とたきが養生所に来ることになっている。少し早いうちに出かけて、早めにすっきりとしたいというのが本音だ。
「亮之進様、お身体の具合が良くないのですか」
朝餉の時、雪乃にそう問われた。思った事がすぐに顔に出る、それが亮之進の短所でもあり長所でもある。
鞆哉がたきを伴ってやって来たのを潮に、亮之進は養生所を出た。
「朝から初瀬先生はお出かけなのですね、お忙しいこと」
たきは雪乃に言う。雪乃は笑って頷きながら、亮之進を見送った。
「たきさん、お身体はどうですか。悪阻はひどくない?」
「おかげ様で…大丈夫です」
良かった…と小さく言って、雪乃は今日の段取りを告げる。できるだけ障りのないように、それでもたきが気詰まりに感じないように、さりげない気配りが雪乃らしい。
たきも小さく頭を下げる。 早ければ年内にも、可愛い嬰児の泣き声を聞くことができるだろう。雪乃は温かな眼差しでたきを見ながら、無事にその日が迎えられることを心より祈った。
急に屋敷を訪れた亮之進を、奉行は心良く招き入れてくれる。亮之進の本音を知ってか知らずか、満面の笑みである。
「わざわざ足労いただき、申し訳ない。養生所の方はいかがかな」
「はい、今は患者も落ち着いております。特に気になる病人はおりません」
応えながら亮之進は窺うように奉行を見た。
「ははは、そのように疑って見ずとも、前のような無理難題を押し付けはしない」
奉行は笑いながら、茶を勧める。
「おそれいります」と茶を一口すすると、亮之進の気持は少し落ち着いた。
「わしが気に掛けているのは、雪乃のことじゃ」
「雪乃殿の…」
「四方殿とたきさんは、どうやら順調にいっているようじゃな」
「はい、実は年内には子供ができるようで、睦まじく過ごしております」
「ほう!それはめでたい。無理をさせてはいけんな」
「はい、その点も雪乃殿が万事うまく取り計らっておられます」
そうか…と奉行は茶を飲み干し、亮之進をまっすぐに見た。
「初瀬殿は、雪乃をどう思っておられる…」
「どう…とは」
「わしは雪乃を娘のように思っておる。雪乃は知っての通り、親のしくじりで憂き目を見た女じゃが、誰よりも美しい心を持っている。わしは雪乃をもう一度良い御仁に嫁がせたいと思うのじゃ」
「何と、雪乃殿を…でございますか。して…どこかに当てがございますのか」
「いや…当ては無い。じゃが雪乃ももうすぐ四十路であろう。もう孫の一人二人おっても不思議のない歳ではないか。わしは雪乃が不憫でならん」
「雪乃殿は…雪乃殿は養生所には無くてはならないお人です。それに、もう一度稼したいと望んでいるとは思えません」
「何故そう思う」 亮之進は言葉に詰る。何故といわれても、答えようが無かった。
「私は…雪乃殿を妻にしたいと考えております。でも、それは雪乃殿にとって迷惑なことのようにも思えるのです。いつも私の思いははぐらかされる。自分は雪乃殿にとって、どこまでも弟のようなものなのだと半ば諦めておりました」
亮之進は一気に話し、奉行を見た。奉行は半ば呆れたように、それでも苦笑いを浮かべながら頷く。
「何故それをもっと早く雪乃に伝えなかったのだ。そうすれば雪乃もこんな歳まで一人でいることは無かったのに」
「何度も告げようとしましたが、その度に話題を変えられました」
「ははは…雪乃らしい。本当のことを言うと、初瀬殿の本心が知りたかったのだ。雪乃はもう一度誰かの妻になることを怖れているのだろう。無理もない、急に離縁され子と離されたのじゃから」
奉行はそう言って、少し顔を曇らせる。
「しかも雪乃はずい分年上だ。それも雪乃にとっては気の引けることやもしれんな。しかし初瀬殿にそのような気持ちがあるのなら、ことは早い。わしから雪乃に話してみても良いが…」
「いえ、それには及びません。私から伝えます、必ず」
「そうか、それが良かろう。ただ、雪乃の気掛かりは生き別れた子のことではなかろうか…その子は父親のもとで立派に暮らしていることとは思うが、それでも雪乃にとっては、たった一人の我が子、気に掛かるのもいたしかたない。雪乃が自分の幸せに背を向けるとしたら、我が子を手離してしまったことへの負い目ではないかと思うのじゃ」
亮之進は黙って肯く。雪乃がどのような生き方をしてきたのか、亮之進にはよく分かっている。それだからこそ、慎重になり過ぎている自分がいるのも確かだ。
奉行の屋敷を辞して、亮之進は少し遠回りをして川土手を歩いた。桜の花芽はすっかり膨らんで、一輪二輪と開きかけている。
養生所で初めて雪乃と会ってから、もう十五年が経とうとしている。雪乃の本心はどうなのだろうか…不意に不安が押し寄せる。奉行には自分から思いを伝えると言ったものの、亮之進は俄かにその気負いが薄れるのを感じていた。
養生所に戻ると、たきと雪乃が薬草の調合を行っている。二人が並んで話している姿は、本当の姉妹のようにも見える。亮之進は眩しいものを見るように二人を見ていた。
「あら、初瀬先生、お帰りなさいませ」
亮之進に気付いたたきが言い、雪乃も笑顔で頭を下げる。亮之進はその視線から思わず目を逸らし、診療部屋へ向かった。 診療部屋では鞆哉が一人の老人を看終わったところだった。
「佐平さん、くれぐれも無理は駄目ですよ」
佐平と呼ばれた老人は、頭を下げて出ていった。養生所近くの池井店に住む佐平は胸の痛みを訴えて養生所を訪れていたが、働き手の息子を亡くしどうしても無理をしがちで、心の臓にも負担がかかっているのだろうと、鞆哉は言う。
「佐平さんのところは確か、息子さんは一人だったのでは…」
「ああ、気の毒なことだ。あと嫁いだ娘さんが一人いるが、子に先立たれるのは堪えるだろうな」
亮之進は肯いて上着を羽織った。
「奉行の話は…?」
「もう終わった。大したことではなかった」
鞆哉は少し窺うように亮之進を見たが、それ以上は何も言わず次の病人を呼び入れた。 養生所を訪れる病人は様々である。当初は厳しい審査を経た者だけが入所を許されるという療養所だったのが、今では暮らしの成行きがたつ者達にも、その門が開かれているため、病人達は比較的気軽に養生所にやってくる。
これは良いことだと奉行も言い、亮之進をはじめ医師達もその考えに沿って受け入れを行っていた。
日によっては病人が多く、専門外の病を診ざるを得ないこともあるが、今のところ常時いる医師で充分賄えている。 それに加え、今年十六になる文吉が亮之進を助けて働いてくれている。日頃から熱心に医学を学ぶ文吉は、一人前の医者としての知識を充分に持ち合わせていると亮之進は考える。
これは他の医師も認めるところだ。あと数年の後には良い医者になることだろう。
「なあ四方、この養生所もこれからは少しずつ変わっていくのだろうな」
「どうした、奉行に養生所の今後について何か言われたのか」
鞆哉は訝しげに亮之進を見た。
「いや、そうではないが、年月が経つのは本当に速いものだとつくづく思う。何しろお前が父親になるのだから」
「おいおい、もう我らも三十路ではないか…遅いくらいだ」
そうだな…と亮之進はあいまいに笑って答えた。
夕刻になり、鞆哉とたきは帰っていった。亮之進は最後の病人を見送り、自室に戻った。
「さて…」
文机の前で亮之進は一つため息をつく。どうしたものか…文箱を開け簪を取り出す。
雪乃に渡せないまま仕舞いこんでいた簪は、丁寧に袱紗に包まれていたため、まだ美しいままだ。 入所者の夕餉の配膳を終えた雪乃が、
「夕餉の用意ができましたよ」と亮之進に声をかける。 亮之進は慌てて簪を文箱に仕舞った。
養生所では医師も下働きの男たちも女も、皆同じ部屋で膳を囲む。これは雪乃が自然にそうしてきたことで、最初は恐れ多いと遠慮していた賄いの女たちも、末席にではあるが並んで座ることに慣れてきたようだ。
夕餉は青菜や根菜を煮付けたものが主で、質素なものではあったが、日替わりの汁物が必ず付く。皆静かに、それでも和やかな時間を過ごした。亮之進はこの穏やかな養生所での生活が、雪乃に思いを告げることで壊れてしまうのではないかと恐れる。今のままでも良いのでは、という思いまで頭を擡げてくる。
「お替りはいかがですか」
雪乃が声をかける。
「いや…もう…」
亮之進は歯切れ悪く応え、箸を置いた。雪乃は何か言いたそうに亮之進を見たが、それ以上何も言わずに微笑んで小さく頷いた。
翌日、養生所を一人の若者が訪れた。若者は長田久右衛門と名乗り、医師を志しており、養生所で働きたいと申し出た。
医学については町医者の村岡道安に付き学んできたと言い、養生所で、より深く医学を学びながら病人達のために働きたいと言う。武士らしい身形の久右衛門に亮之進は自分が養生所に来た時のことを重ね合わせた。
「長田殿、お家の方は了承なのですか」
「はい、長田の家は長兄がすでに父の跡を継いでおります。私は四男で…養子の声もかかりましたが、医者になりたいと断りました」
二十歳になったという久右衛門が年齢よりも幼く見えるのは、その童顔のせいかとも思える顔を崩して、人懐っこく笑った。
「道安先生の所は、長田殿が去られては困られるのではありませんか」
「道安先生は…その…私への給金は出せないと…いや、それまでも給金など頂いてはおりませんが…」
亮之進には久右衛門の言うことがよく分かった。自分の暮らしがやっとという町医者は多く、村岡道安は裏店の病人を主に診るため、暮らし向きはその最たるものだろう。
亮之進は何度か会ったことのある、道安の痩せた顔を思い浮かべた。
「道安先生は、私に養生所で医学を活かせと言ってくださいました」
「道安先生に付いて学ばれたのなら、願ってもないことです。ただ、養生所でもたいした給金は出せませんが」
そう言って亮之進は笑い、
「そんな…私は給金を頂くつもりは…」
と、久右衛門は頭を下げながら言った。 久右衛門はとり急ぎ長田の家を出ると言う。四男の身でいつまでも居候としては居にくいのだろうと、亮之進も納得した。
亮之進は雪乃を呼び、久右衛門と引き合せた。
「養生所の薬園から患者の世話一切を仕切っていただいている、雪乃殿です。こちらは養生所で医師として働きたいと申し出られた、長田久右衛門殿です」
「まあ、そうですか。長田様…もしかして深川の仁右衛門様の…」
「はい、父をご存知なのですか」
「ええ、少し…お母様もお元気でいらっしゃいますか」
久右衛門は「はい、おかげ様で」と答えながら驚いて雪乃を見た。
「それは良かった…養生所にはいつからおいで頂けるのですか」
雪乃は話題を変え、久右衛門は
「それについては初瀬様と相談させていただく所存です」と答えた。
亮之進は、いつからでも養生所の方は異存ない為、道安の都合に合わせて養生所入りするように久右衛門に伝え、久右衛門は早速道安に相談すると、一旦養生所を後にした。
「長田殿を…?」 雪乃と二人になった亮之進は尋ねた。雪乃は少し躊躇するように遠くを見たが、すぐに笑って言う。
「ええ、遠い昔に…」
雪乃はそれ以上は何も言わず、亮之進も聞かなかった。
長田久右衛門の実家は雪乃が離縁された柴木の家の近くにあり、久右衛門は雪乃の別れた子文哉と同じ年の生まれだった。
久右衛門は末子で、その母親としは雪乃より一回り年上ではあったが、同じ年の子を持つ母同士、何かと近く接していたのだ。 雪乃は人の縁を感じながらも戸惑いを覚えていた。二十歳になるであろう久右衛門は、そのまま文哉の姿と重なる。
文哉を最後に見かけたのは十三歳の時で、文哉は学問の仲間と歩いていた。雪乃は遠くからその姿を見るだけで、十分幸せであると自分を戒めた。
夫であった柴木和哉は、その後後添いを貰い文哉の下に男児と女児ができたことも、風の便りに聞いたが、文哉は嫡男として和哉の跡を継いだらしい。このことが雪乃には何よりも嬉しく、それ以上文哉との関わりを持ちたいなどとは、思ってもいないのだ。
それでも、文哉と同い年の久右衛門が目の前に現れたことで、雪乃は胸の高鳴りを覚えた。 これから、文哉の今を久右衛門を通して知ることもあるかもしれない。そう考えただけで複雑な気持ちが胸の内に広がった。
亮之進はほどなくやってきた鞆哉に久右衛門のことを告げた。
「村岡道安先生のもとにおられたのなら、願ってもいないことではないか。道安先生はその医術も人間性も尊敬できる方だしな」
「ああ、医者としては申し分ないと思う」
「何か問題でも…?」
「いや、長田殿の実家は雪乃殿の昔のことと何か繋がりがあるらしい」
「雪乃殿がそう言われるのか」
亮之進は「いや…」と頭を振り、「俺がそう思うだけだ」と付け足した。
鞆哉は真直ぐに亮之進を見て頷き、
「それで、雪乃殿にはいつ話す」
「何をだ」
亮之進は目を瞠って鞆哉を見た。
「お前なあ、もういい加減にはっきりさせろよ。雪乃殿のこともきちんと考える潮時だろうが」
「実は、奉行にもそれを言われた」
「奉行に…そうか…やはりお奉行は二人のことは分かっておられたのか」
「いや、雪乃殿をどなたかに嫁がせると言われた。俺は慌てて自分の気持を奉行に白状せざるを得なかったのだ」
「何と、それはお奉行の戦略だろうよ。まんまとひっかかったな」
鞆哉はあはは、と豪快に笑う。それを軽く睨んで亮之進は続けた。
「雪乃殿には、置いて出られたお子がおる。そのことが自分が誰かの妻になるという枷になっているのではと奉行は言われるのだ」
「そうか…そうかも知れんな。だがそれなら尚更ではないか。初瀬、お前の気持は決まっているのだろう。雪乃殿にはっきりと伝えろよ」
「わかっておる」 亮之進は小さくつぶやくように答えて、診療部屋に向った。
鞆哉に少し遅れて、たきが養生所にやってきた。 雪乃はちょうど薬園から戻ったところで、「どうですか、変わりない?」とたきを気遣う。
たきは「おかげさまで」と雪乃の手から薬草を受け取り、微笑んだ。穏やかな幸せな笑みである。
「先ほど、新しく養生所に来られる先生が見えたのですよ」
「あら、そうなのですか。どのような方でしょう」
「まだお若い、良さそうな方…」
雪乃は人懐こい久右衛門の顔を思い出しながらそう答え、たきは「それは良かった」とまた優しく笑う。
養生所の一日が、久右衛門の訪れでより明るいものになったと、雪乃はたきに頷きながら思っていた。そしてその存在が、もしかしたら文哉との間を縮めることになりはしないか、とも考えていた。
自分が生み、そして置いて出てしまった自分の血を分けた、たった一人の我が子である。その事を考えると、雪乃の胸は痛んだ。
文哉は自分を憎んでいるのではないか、恨んでいるのではないか…我が子などと呼ぶ資格は自分にはないのだと、雪乃は自分を諫めた。
久右衛門は一周りもしない内に、身の回りの荷物を携えて養生所の住人となった。亮之進の隣りの小さな部屋が久右衛門の部屋にあてられた。
「四男の肩身の狭さから、やっと抜け出すことができました」
久右衛門は屈託なく笑い、小さな部屋を見回す。文机だけの殺風景な部屋だが、荷ほどきをすると、書物が渦高く積まれ、雪乃は「あらあら」と声に出した。
「母が、雪乃殿のこと、よっく存知上げていると申しておりました。どうされているかとひどく案じておりましたが」
雪乃は驚いて久右衛門を見た。
「お母様が…私のことを…?」
あれからもう二十年が経つのだ。雪乃はとしの穏やかな話し方や笑顔を思い出し、胸が熱くなった。
としは久右衛門に雪乃のことをどのように話したのだろうか。久右衛門はそのことについては特に話さず、「良い風だ」と障子をあけて深く息を吸った。
その日は養生所での診療のこと、薬草園のことなど、亮之進が所内を案内しながら細かく伝え、久右衛門も熱心に頷きながらそれに応えた。
「いろいろと詳しく案内していただき、ありがとうございました。道安先生からは大まかに話は伺っていたのですが、その実私に務まるものか…不安でもあったのです。皆さんにお会いして、すこし気持ちが安らかになりました」
亮之進と一緒に入所の患者を見廻った後、久右衛門は調薬部屋で肩の荷をおろしたようにいった。 雪乃はその笑顔に頷きながら、茶を淹れている。薬湯を患者の元へ運んだたきが調薬部屋に戻って来て、久右衛門と挨拶を交わす。
「四方先生の奥方ですか。長田久右衛門と申します。何卒よろしくお願いいたします」
少し緊張した久右衛門の言葉に、たきは笑いながら、
「まあ、奥方だなんて…たきとお呼びくださいませ。こちらこそどうぞよろしくお願いいたします」
と雪乃から茶を受け取り、久右衛門の前に置く。見廻り後の穏やかなひと時である。 「まもなく、昼過ぎからの診療や薬湯の支度で慌しくなるので、少し休まれるとよいでしょう」
亮之進の言葉に頷き久右衛門は自室に戻った。 たきは入所者への中食の支度を手伝うために、厨に向う。 雪乃と二人きりになった亮之進は、少し落ち着かない。
「長田先生は気さくで良い方ですね。患者さんにも優しそうで…良かった」
「はい、熱心に患者の様子を書き止めておられました。養生所にとっても喜ばしいことです」
「今日の夕餉は少しご馳走にしましょうね」
雪乃は微笑んでそう返した。
「長田殿と、その…雪乃殿とは以前からのお知り合いなのですか」
亮之進は思い切ったように尋ねた。一瞬雪乃は驚いたような目を亮之進に向けたが、すぐに柔らかな笑顔に戻って肯く。
「長田様のお屋敷は、私が嫁していた柴木の屋敷のすぐ近くでした。久右衛門様のお母様には何かとお世話になったのですよ」
「そうでしたか。長田殿は…もしかして雪乃殿のお子さんと同じくらいの年頃かと…」 「ええ…文哉と同い年です。生まれ月は文哉が三月遅いのですが、そんなこともあって、お母様のとしさんにはいろいろと教えていただいたものです」
雪乃は遠くを見るように言う。そして亮之進が何か言おうとするのを遮るように、続けた。
「ほんの一年足らずでしたが…久右衛門様は本当に可愛いお子でしたよ。今もやはり面影が残っておられます」
その日は鞆哉とたきも加わり、ささやかながら久右衛門の歓迎も兼ねた賑やかな夕餉となった。 久右衛門は恐縮しながらも、亮之進の勧めで盃を重ねた。
「長田先生は、お酒もお強いのですね」
亮之進も鞆哉も少しはいける口だが、久右衛門が盃を重ねてもまったく顔に出ないことに驚いて、たきが言う。
「はあ、強いのかどうか…父も酒好きでしたから、血を引いたのでしょうか。いや、少し調子に乗り過ぎました」
久右衛門は頭を掻きながら人懐っこい笑顔でたきを見た。 雪乃はふとその笑顔の中に、長田仁右衛門の顔を重ねた。
仁右衛門もこのように笑顔の多い人だった。柴木の家を離縁された時、雪乃を擁護してくれたのは、長田の家の人達だけだったと、後に柴木の女中をしていたとめから聞いたことがある。
柴木の嫁であったことは、今では遠い昔のことと思い出すことも少なくなったが、我が子を思う気持ちは年とともに強くなるように感じる。 まして、我が子と同じ年の久右衛門が身近にいることで、その思いが尚更強くなっていることは事実である。
文哉もこうして酒を飲み、笑いながら夕餉の膳に向っているのだろうか。しっかりと食は進んでいるのだろうか。思っても仕方のない事ばかりが頭に浮かんでくるのを、振り払うように、雪乃は空になった銚子を取り厨部屋に向った。
久右衛門は期待以上の医師であり、それは養生所にとっては大きな力となった。
養生所が落ち着いている時には、道安を助けることもあったが、ほぼ毎日養生所の患者と向き合い、徐々に患者の信頼も集めるようになった。
そんなある日、養生所に一人の客があった。武士の妻女らしく凛としたたたずまいで、他を圧倒するその人は、久右衛門の母だと名乗った。 その場にいたたきは、雪乃を呼びに走り、雪乃は菜園から急ぎ戻って来て、「とし様」と上気した顔でとしに駆け寄った。 「雪乃様、まあ、本当に雪乃様でしたのね」
としは信じられないという風に雪乃に言い、少し涙ぐんだ。
「久右衛門が雪乃様のことを話したとき、半分は信じられなくて…まさか久右衛門が縁でもう一度雪乃様に会えるなどと、思ってもおりませんでした」
「私も長田様とこのような形でお会いするなどと、夢にも…さ、中にお入りくださいませ」
としは「いえ、お邪魔になってはいけませぬゆえ…」と躊躇したが、どうしてもという雪乃に、それでは…と従った。
「母上、いかがなさいましたか」
たきからとしの訪問を聞き、久右衛門が驚いた様子で診療部屋から戻って来た。
「久右衛門、あなたがちゃんとお勤めされているかどうか、気になって…」
「何と、私はもう子供ではございません。そのような心配はご無用です」
としは少し笑って、「そのようですね」と雪乃に言う。 雪乃も笑いながら頷き、
「長田先生、お母様は私に会いに、わざわざおいでくださったのですよ。ちょうどよい時間です。ひと息ついてくださいませ」
と久右衛門の前に茶を置く。
「そうなのですか。驚くではありませんか。まったく…」
久右衛門は少し憮然とした面持ちで湯呑を口に運んだ。
そんな久右衛門をとしは少し目を細めて見る。その目は母親の目そのもので、雪乃は思わず目を逸らせた。
「さてと、それなら私は診療に戻ります。母上もあまり長居をなさいませんように、皆さまの手を止めることになってはなりませぬゆえ」
「はいはい、承知しておりますよ。あなたも皆さまの足手まといになられませんように」 としは、そう言うと雪乃に微笑んだ。 久右衛門が席を立つと、たきも薬草を煎じるために部屋を後にする。
雪乃は改めてとしと向き合った。あの日からどれだけの長い年月が経ったのか、二人の顔には抗うことのできない、その年月の長さが表れているようにも感じる。
「雪乃様はどうなさっているのか、いつも気に掛かっていましたが、柴木様に伺うこともできず、長田の家でも聞いてはいけないことのようで…」
雪乃はだまって頭を下げる。
「ご心配をおかけしました。私もあのころのことは決して忘れてはおりません」
「毎日お話ししましたよね。私たち」
「ええ、本当にいろいろと…」
「文哉さんのことは?」
「はい、柴木の嫡男として立派にやっていると、風の便りに聞きました」
「それはもう、家の久右衛門とは比べものにならないほど、しっかりとなさっておられます」
「そうですか…立派に育てて頂いたのですね。久右衛門様を見ていると文哉もこんな風に…と思います。私は母と言えるようなことは、何もしておりませぬゆえ、感謝しかありません」
「文哉さんはこの秋に祝言を挙げられます」
としは、少し躊躇したあと、真っ直ぐに雪乃を見て言った。雪乃は「えっ…」と一瞬言葉に詰まったが、小さく頷いた。
「とても良いご縁だと、長田も申しております。きっと柴木様のお家は安泰だと」
「そうですか、文哉に奥方が……」
としは頷きながら、「雪乃様、もう何もご心配はいりませんよ」と言う。
雪乃にとっては、我が子はいつまでも小さな子どもであった。十三歳の時、一度遠くから見かけた時も、乳飲み子だった我が子の成長に涙したが、その子が今嫡男として一家の主として、新しく家庭を築こうとしている。
雪乃は過ごしてきた年月の長さを、改めて感じる他なかった。
「本当に、もう私があれこれ思うことは無いのですね。文哉にはあれから弟と妹ができたとも聞いています。文哉に跡をお任せ頂いた柴木様にも感謝の他ございません」
としはもう一度大きく頷き、肩の荷が降りたというように、ふっと息をついた。
「私ね、雪乃様に何とかこの事をお伝えしたいと思っていたのですよ。それが、まあ、久右衛門によって叶うだなど、夢にも思いませんでした」
「本当に…天の思し召しでしょうか…」
「久右衛門は末っ子の甘えん坊で、急に医者になりたいなどと言い出して…長田も私も慌てました。石破様へ養子入りが決まりかけていたところだったもので、それはもう長田も怒り心頭で」
としは、その頃のことを思い出したのか、目に涙を浮かべた。
「でも、久右衛門は正しい選択をしたのですね。今では長田も認めざるを得ないと考えているようです。まして雪乃様とまたこうしてお話しができるようになったのですもの」 「久右衛門様は、医師としての優れた才をお持ちですよ。患者さんにもお優しい目を向けてくださいます。初瀬様も他の方たちも同じようにおっしゃっていますし、とし様もどうぞご安心なさってくださいね」
としは晴れやかな笑顔で頷き、養生所を後にした。 この事を聞いた亮之進は、つくづく人の縁の不思議さを感じていた。
雪乃はとしとの会話について詳しくは話さなかったが、それが良いことであったのだと雪乃の様子でわかった。今まで以上に雪乃は甲斐甲斐しく動き、明るい笑顔で皆と接している。 亮之進は、ゆっくりと雪乃と話し合おうと考えていた。
長い年月、胸に収めていた思いを、はっきりと口にする時期がきたのだと感じていた。明日こそはきっと思いを伝えよう。 雪乃の姿を目で追いながら、亮之進はそう心に誓った。
翌日の朝早くに、女が養生所に担ぎ込まれた。担ぎ込んだのは小石川で十手を預かる平蔵で、その女はこの界隈の者ではないという。 久右衛門が、
「先生、この人…身籠っていますよ」
と亮之進に言い、亮之進も頷く。 女は脈も弱く、ろくに食べ物も口にしていなかったのではと思われた。痩せた身体には不釣り合いに腹がせり出している。
「とにかく、気付の薬湯を飲ませて…少し落ち着いたら、腹の子の様子を診よう」
雪乃が亮之進の処方で薬湯を煎じ、女の口元に注意深く少しずつ注ぐ。女は少し意識が戻ったのか、うっすらと目を開けた。
「もう大丈夫ですよ。心配しないで…今はゆっくりお休みなさい」
雪乃は耳元で小さくささやくと、女の目尻から一筋の涙が流れた。
その日の昼時には女は重湯を口にし、床に起き上がれるようになり、名前を問われると小さな声で「さち」と答えた。 亮之進の診たてでは、さちはもうまもなく産み月になるのでは、と言う。子を宿した上に満足に食べることもせず、行き倒れとなっていたようだ。
歳を聞くと、下を向き唇をかんだが、「十五…」とこれもまた小さく答えた。
「とにかく、今日は身体を休めること。詳しいことはまた明日にでも聞かせてもらうとしましょう」
亮之進は雪乃にそう言って、部屋を出ていった。 雪乃はそれに同意し、不安そうに座っているさちに、
「さあ、何も心配せず、もう少しお眠りなさい。お腹の赤ちゃんのためにも…ね」
とさちの背中を優しく撫でながら言う。 さちは、溢れた涙を手の甲で拭い、背中を向けて床に潜った。 入所部屋から戻った雪乃に、待ちかねたように久右衛門が声をかける。 「どうですか、あの娘の様子は…十五といえば、まだまだ子どもではありませんか。いったいどうして…」
「今はまだ詳しいことはお聞きしていません。明日にはいろいろとお話しできるようになられるでしょう。もう少しお待ちしましょう」
雪乃は久右衛門に微笑みながら答え、大丈夫ですよと付け加えた。
「さちさんには、どなたかお知らせする方はおられないのでしょうか」
たきは雪乃に代わって薬草を煎じていたが、ふと手を止めて雪乃に言う。
「そうね…お聞きしてお知らせしなくてはいけませんね」
雪乃は薬湯を甕に移しながらそう答えた。
夕餉時のさちは、頬に少し赤みが戻りいくらか落ち着いたようだ。雪乃は様子だけをみて、できるだけ話しかけることを控えた。
胃の腑に負担をかけないようにと、柔らかめに炊いたお粥を残さずに食べて、さちはまた蒲団に潜り込んだ。
夕餉が終ると、夜を診るために養生所へやってきた水内禄郎と交代するように、久右衛門は自室に戻り、禄郎は患者を見廻るために入所部屋へ向かった。
「さて…どうしたものでしょうか」
二人になった部屋で、亮之進が口を開く。
「さちさんは、どうやら所帯を持っているわけではないようだし、腹の子が誰の子かもわかっているのかどうか…」
「そのようですね…何か訳があるのかもしれませんが」
「平蔵親分が身元については、調べてくれているようです。その結果を待って、これからのことを考えなくては」
「さちさん、身体の方は特別に心配はありませんか。お産できるだけの力はおありでしょうか」
「脈もしっかりしていますし、食欲もあるようで、今のところ特に気になる所はありません。若さもあり子を産む力は充分あるでしょう」
「そうですか、良かった…」
雪乃に自分の思いを打ち明けることは、少し先になりそうだ…亮之進は、何故かほっとした気持ちでいる自分を恥じながら自室に戻った。
雪乃は入所患者の明日の薬湯を確かめて、外に出た。明日も良い天気になるらしく、満天の星が瞬いている。 ここのところ、穏やかな日が続いていたが、急に身の回りが慌しく動き始めたように感じる。星を見上げながら雪乃はふっと小さなため息をもらした。
翌朝一番に平蔵がやって来て、さちの様子を尋ねた。
「娘の手掛かりが無いか、いろいろと手を尽くしちゃおりますが、今のところ……ただ、小日向水道町の水茶屋にいた娘じゃないかと、仁太が言うもんで、今日は今から行ってみようと思いやしてね」
「水道町ですか…さちさんを知る方がおられると良いのですが」
雪乃は平蔵に濃い目のお茶を淹れて、勧めた。 娘はさちという名前で、十五歳。そろそろ産み月に入っていることなど、亮之進は平蔵に告げて、滋養のあるものを食べれば、子を産む体力は戻るだろうと付け加えた。
「十五ですか、もう少しいっているかと思いやしたがね。腹の子に罪はねえが産んだところで、無事に育てられるかどうか…こいつがまた気掛かりになりやすね」
平蔵はやれやれ、というように首を振ってため息をついた。
「親分」 表で仁太の声がする。
「仁太のやつが、やっと来たようだ。雪乃さん、ご馳走になりやした。娘のことはもうしばらくよろしくお願いしやす」
平蔵は「さて…」と腰を上げると養生所を後にした。 入れ替るようにたきがやってきて、薬湯の準備を始める。
「さちさんの様子はいかがですか」
たきは、同じように身重のさちのことが、他人事とは思えないと言い、心底気に掛けているようだ。
「大丈夫ですよ、さちさんも赤ちゃんも」
「今日は四方先生もこちらへ詰めるとのこと、さちさんのことは話しています」
いまだに鞆哉を四方先生と呼ぶたきである。雪乃は少し笑って頷く。 さちは朝餉には口をつけたが、昨夜ほど食が進まないようだった。
医師の水内禄郎は、さちの心の臓に少しの違和感を感じると亮之進に伝えた。
「気のせいかも知れませんが、わずかですが音に濁りがあるように感じます」
亮之進はさっそくさちを診るために、部屋を訪れた。さちの胸に手を置き、その振動を確かめ、直接耳を当ててその音を聞く。
「なるほど、確かに水内先生のいわれる通りだ…よく気付かれましたな。四方先生に詳しく診てもらいましょう」 と禄郎に言い、
さちに「胸が苦しいことはありませんか」と聞いた。 さちは頭をふって不安そうに二人の医師を見た。
ほどなくやってきた四方鞆哉の診たても、二人と同様だった。
「どうやら、心の臓が少し弱っているようだ。前から持病があったのかどうか…脈はしっかりしているようだが」
診療部屋に移って、鞆哉は亮之進にそう告げ、亮之進は肯き腕組みをし天を仰いだ。
「とにかく、赤ん坊が無事に育っているのはありがたい。何ごともなく出産できるとよいが…四方、何とか頼むぞ」
「今すぐどうという事は無いだろうが、とにかく身体に力をつけることが必要だな」
鞆哉も同じように腕を組み、天を仰ぐ。
たきは薬湯を携えてさちのいる入所部屋に向った。さちは眠っているようだったが、気配に気づいたのか、目を開けた。
「どうですか、お薬を飲みましょうね」
小さな顔には、まだあどけなさが残っている。たきの胸はせつなさに曇った。
「さちさん、ご家族は?」
薬湯の湯呑を手渡しながら、たきはごく自然に尋ねる。湯呑を受け取る手を止めて、たきを見たさちは小さく頭をふった。
「そう…一人で…?大変でしたね。どなたかお知らせする方はおられませんか」
「いえ、すみません。ご迷惑をおかけして」
さちはたきを真直ぐに見てそう言い、たきは「そんな…迷惑なことなどありませんよ」と少し驚いて、さちに応えた。
入所部屋を出たたきは、その足で診療室に向った。
「さちさん、身寄りの方はおられないようです。お知らせしたい方も…」
診療室にいた亮之進は「そうですか」と肯き、もうしばらくさちの様子を見るようにたきに伝えた。
「心細いでしょうに、できるだけさちさんの力になってあげたいですね」
たきからさちの様子を聞いた雪乃はそう言って、薬湯を受け取ると、
「たきさんもあまり気に病まないように、ご自分のことも大切ですからね」
と微笑んだ。
平蔵がやってきたのは夕刻を過ぎてからで、その日の診療がひと段落ついた頃だった。 「あの娘…さちといいやしたか、やはり水道町に住んでいやした。母親は二年ほど前に亡くなったらしく、父親はいたようですがね、これが…」
と少し声を低くして、「ひどい野郎で…」と続けた。
平蔵の話では、さちは母親が亡くなったあと、父親に半ば売られるように男たちに弄ばれたのだという。そしてやっとその父親から逃れて水道町の水茶屋で働いていたのだ。
「まだ十三やそこらの娘を、金で…酷い話でさぁ。ところが話はこれで終りじゃねえ、先ごろ水道町まで、その父親がさちを探し出してやってきたらしいんで…」
「まあ、そんな…」
たきが思わず声をあげる。
「さちはあの通り、孕み腹だ。それを見た途端にその父親は、さちを殴りつけて、止めに入った若衆たちと大揉めになり刃物ざたに…水茶屋の主が自身番所に駆け込み、その父親はお縄でさぁ」
「そんなことがあったのですか」
亮之進も雪乃も言葉が続かない。
「さちは、その水茶屋にいられなくなり、姿を消したとのことで…」
「で、さちさんのお腹の子は、誰の子か知っている人はいなかったのですか」
「水茶屋の主は、さちが使って欲しいと店に来たときには、まさか子を孕んでいるとは思わなかったと言い、それからすぐに腹が目立ちはじめたとかで、まったく心当たりはないといいやす。おおかた、さちの父親が当てがった男の子じゃあありやせんかね」
「さちさんには、顔や腹には特に殴られたような跡は無いようでしたが、もう一度身体をあらためなくてはいけませんね。それにしてもひどい話ですね」
亮之進は心底憤慨した面持ちで平蔵を見た。
さちの様子はさほど変わりなく、ひと回りが過ぎた。 そろそろ産み月に入っているはずだが、お産に耐えるだけの力があるかどうか、亮之進をはじめ鞆哉も雪乃もそれを心配している。 心の臓は生まれついての病かどうかわからないが、確かに丈夫な質ではないように思われた。
「さちさん、食の方はどうですか」
「そうですね、相変わらず食が細くて…もう少し食べていただけると良いのですが」
亮之進の問いに、雪乃は心配そうに答える。
「お産はいつごろになりましょうか」
「もう近いと思うのです…もう少し元気になってもらってからなら、何とか持ちこたえることができるのですがね」
「赤ちゃんは無事に生まれるでしょうか」
「それも…今のところは…」
雪乃は顔を曇らせて、小さく頷いた。
入所部屋を見廻ったたきが苦しむさちを見つけ、大慌てで亮之進を呼んだのは、翌日の夕刻だった。
さちは産気づいており、亮之進と雪乃はすぐさまお産の準備にかかった。鞆哉も久右衛門も加わり、さちにとっては命がけのお産を見守る。
お産はことの他時間がかかり、さちはその力がもう萎えてしまったようにぐったりとしている。
「さちさん、あなたは母親になるのですよ。しっかりしなさい。赤ちゃんをこの世に出してあげなければ、ほらもう少し、がんばるのですよ」
雪乃が耳元で声をかける。さちは薄く目を開けた。そして最後の力を振り絞るようにいきみ、赤子を産み出した。部屋に産声が上がり、外で気をもんでいたたきは、思わず顔を覆って咽んだ。 雪乃は、すぐに赤子をくるみ全身を摩擦する。男の子だ。
「さちさん、男の子ですよ」
雪乃の言葉がさちに聞こえたのか。さちはかすかに微笑んだようにみえた。
さちは我が子を胸に抱くことはできたが、乳を含ませることもできず、数日後にその短い生涯を終えた。 心の臓が子を産むという大きな力に耐えきれなかったのだろうと、亮之進は言い、鞆哉も久右衛門も唇を噛んだ。
雪乃もたきもさちの薄幸を悲しんだが、残された赤ん坊を思うと泣いている暇はなかった。 万が一のことを考えて、雪乃が源平店の若い母親に貰い乳を頼んでいたため、赤ん坊は乳を飲みたいだけ飲む事が出来たのは幸いだった。
子は母親の名をいただき、伊佐知と名付けられた。
「この度は先生方に、いろいろとご足労をおかけしやした。まあ、赤ん坊が無事なのが幸いで…今里親を探しておりやす。もうしばらくこちらで預かっていただければと思いやすが」
平蔵が頭を下げる。
「親分、さちさんには気の毒なことでしたが、さちさんが命がけで産んだ子です。良いところに縁があるように、いつまでもお預かりしますよ」
亮之進は答えて、雪乃を見る。 雪乃も頷きながら
「はい、大丈夫ですよ。伊佐知さんのことは、どうぞお任せください」と微笑んだ。
伊佐知は母親の分もがんばって生きようとするかのごとく、乳をよく飲み大きな声で泣いた。 雪乃は貰い乳だけでなく、夜中は重湯を少しずつ与えるために添い寝を続け、我が子のように伊佐知を愛おしく感じ始めていた。
その泣き声や小さな手に、忘れていた文哉の声や手を思う。
「伊佐知さんのことですが…」
雪乃は改まった様子で亮之進に切り出した。
「このまま、養生所で育ててはいけないでしょうか」
亮之進は一瞬驚いたように目を見張ったが、務めて穏やかに言った。
「どうしたのですか。雪乃殿らしくない…伊佐知は…」
「分かっています。伊佐知さんには二親揃った所で育てていただくのが一番だと。でも…私はあの子が手放せなくなりました」
雪乃は、もう決めたのだ。というように亮之進を真直ぐに見つめる。
「お気持ちは分かりました。明日にでも平蔵親分に話してみましょう」
亮之進も雪乃を真直ぐに見つめ返した。
翌日、亮之進は下富坂の平蔵の所へ行くつもりで、養生所を出たのだが、ふと思い立って奉行の元を訪ねた。 雪乃のことで自分の気持をはっきりと伝えると言ったきり、その約束も果たせずにいること、そして伊佐知のこと、雪乃の思いなどを奉行に伝えるべきだと考えたのだ。 奉行はいつも通り和やかな顔で亮之進を迎え、開口一番に
「首尾はどうじゃな」 と尋ねた。
「は…その、あれから様々なことがあり、まだ気持ちを雪乃殿に伝えることができないままで…その上、思ってもいないことが起こっております」
亮之進は養生所での出来事をありのままに話した。
「何と、雪乃がその赤子を育てたいと申しておるのか」
「はい。雪乃殿の気持はすでに決まっているようでございます」
奉行は一瞬は驚いたものの、すぐに相好を崩し大きく頷いた。
「初瀬殿、これは願ってもいない機会ではないか…雪乃と共にその赤子を育てられるが良かろう」
「えっ…私が雪乃殿と二人で伊佐知を、でございますか」
奉行はまた大きく頷ずく。
「その伊佐知と申す赤子は、そなたを父、雪乃を母として育つということじゃ。これは赤子にとっても何よりのことではないか」
「私が父親になると…?」
「異存があるか」
異存があるかと言われると、亮之進に異存のあるはずは無かった。
「それについては、雪乃殿と話し合う必要がありましょう。取り急ぎ平蔵親分に里親の話が進んでいないか確かめなくては…」
亮之進は早々に奉行の屋敷を辞して、下富坂へ急いだ。
平蔵に子細を告げると、平蔵は目を剥いて亮之進を見たが、すぐさま
「そりゃあ願ってもいねえ話でさぁ」
と言う。
「なに、こちらでもいろいろと手を尽くしちゃおりやすが、なかなか良い話が無くて…どうしたものかと困っておりやしてね。雪乃さんが面倒をみて下さるのなら、こちらは願ったり叶ったりでやすよ」
「それでは、伊佐知は養生所で預かります。その後のことは…雪乃殿と相談した上で、また親分にも報告しましょう。それで良いでしょうか」
「分かりやした。それにしても雪乃殿にしては珍しく、思い切ったことを…。で、伊佐知は貰い子として育つということですか」
「それについても、雪乃殿の考えをはっきり聞いてからのことで、とにかく里親探しは無しということで」
平蔵は大きく頷き、
「伊佐知にとっては何よりでさあ」と笑った。
養生所では、たきが雪乃に伊佐知のことを打ち明けられていた。
「まあ、それでは雪乃様は伊佐知さんのお母様に…?」
「母というより、おばあ様ですね」
雪乃は小さく笑った。
「そんな…でも、雪乃様がお母様なら、伊佐知さんにとってそれは幸せなことですね」 「そうでしょうか。私は後先を考えずに初瀬様にお願いしてしまって、自分の気持のままに動いて良かったのかと…でもね、あの子を育てることが私の運命のように思えるの」 「運命?」
「文哉にしてやれなかったことを、しっかりとしてやれと言われているような、そんな気がして。それにね、あの子の小さな手が私の指をしっかりと握ってきたとき、私はこの子を何としても守ってあげたいと思ったの。愛おしくてたまらなくなって」
たきは何も言わずに、何度も頷く。 その静かさを伊佐知の泣き声が破る。雪乃は笑って席を立った。
伊佐知が養生所に留まるという話は、その日の内に鞆哉や久右衛門の耳にも入った。 感激屋の久右衛門にいたっては、目に涙を浮かべてそれを喜んだ。
心地よい風が青々とした木々の葉を揺らしている。伊佐知を抱く雪乃は母親そのものだ。 「どうですか、大変ではありませんか」
亮之進は雪乃の横に立ち、伊佐知を覗き込んだ。
「いいえ、伊佐知はとても良い子ですよ。ちっとも大変ではありません。もっともこれから大きくなると…何しろ私はおばあ様のようなものですから」
「その時は、私が相手をしますよ。それに雪乃殿は伊佐知の大切な母上です。そのこともしっかりと伝えましょう」
「ありがとうございます。伊佐知のことでは私の我儘を通してしまって、申し訳ありません」
「雪乃殿のことで、奉行から相談を受けました。伊佐知が生れる前のことです」
「私のことで?」
「奉行は雪乃殿を、もう一度良い縁があれば嫁がせたいと仰いました」
「まあ…そんなことを…それはお奉行のお戯れですよ」
「いえ、奉行は心底雪乃殿を気遣っておられます。我が子のように思うと。私はそれを聞いて、心を決めたのです」
「心を?」
「私は雪乃殿を妻にしたいと、ずっと前から考えていました。養生所に入ってすぐの頃からかもしれません。言い出せないままで、いたずらに年月を重ねてしまいました」
雪乃は驚いたように亮之進を見て、頬を少し染めた。
「私の妻になってください」
「そんな…私は亮之進様よりもずいぶんと年が上ですよ」
「そんなことは分かってます。それに、伊佐知には父親が必要になりましょう。私は伊佐知の父親にもなりたいと思っています」
雪乃の目が涙に膨らんだ。
「私は…もう、二度と子を持つことはないと思っておりました。ましてどなたかの妻になることなど…この子を我が子として育てることを許していただき、それだけでもう十分ですのに」
「これからです。一緒に伊佐知を…いや…それだけではなく、これから先も私の傍にいて欲しいのです」
雪乃が何か言おうとするのをさえぎるように、伊佐知が小さな欠伸をした。 亮之進は雪乃の腕から伊佐知を受け取り、「伊佐知、私がお前の父上だ…よいな」と話しかける。 雪乃はそんな二人に微笑みながら、そっと涙を拭った。
数日後、亮之進は初瀬の屋敷を訪ねた。祖母の七回忌の時に帰ったきり不義理をしている。敷居も高い。 亮之進は気後れしながら、門を潜った。
「まあ、若様…いかがなさいましたか」 亮之進が幼い頃から初瀬の家を切り盛りしてくれている、まさが驚きながら迎え入れてくれる。
「まささん、息災そうで何よりです」
「いえいえ、もう年でございますよ。少しお待ちくださいませ」
まさは亮之進が来たことを知らせに小走りで奥に向い、すぐに母の奈緒を伴って戻ってきた。
「母上、ご無沙汰いたしております。兄上たちも息災でおられますか」
「まったく、ご無沙汰どころではありませんよ。まあ何もないのは無事ということだと、皆で話しておりました。養生所の方は変わりありませんか」
奈緒はまもなく六十路のはずであるが、凛としていて亮之進は心底安心して微笑んだ。
離れから兄の喜之介と義姉の瑞恵がやってきて、奈緒とおなじことを亮之進に訊ねたが、瑞恵は「何か良いことがありましたの?」という。
「良いこと…?」
「ええ、とっても良いお顔をなさってますから」
そう言って、瑞恵は笑う。亮之進は居住まいを正して、
「はい、実は…妻を娶ります」と告げた。
「まあ!」「何と!」
奈緒と喜之介が同時に言い、瑞恵とまさは顔を見合わせる。 雪乃のこと、伊佐知のこと、包み隠さずに亮之進は話した。 奈緒は何も言わず頷き、そして喜之介は時々言葉を挟みながら、亮之進の話に耳を傾ける。
「それでは、亮之進さんには奥方とお子さんが一度にできるのですね。素敵ですこと」 瑞恵がそう言い、喜之介に
「おい、そんな軽口を…」とたしなめられている。
「そうですか。よく分かりました。雪乃さんはあなたにはもったいないほどの方です。あなたがいつ心を決めるのか、母はやきもきしていましたよ」
奈緒は静かに言う。
「それは…申し訳ございませぬ」
亮之進は笑って頭を下げた。 喜之介に一緒に飲もうと誘われ、亮之進は初瀬の家に泊まることにした。 この家で膳を囲むのは何年ぶりだろう。喜之介の息子喜一郎と娘のみえとも久々である。
元服を済ませ大人びた喜一郎は、堂々とした面持ちで叔父である亮之進に挨拶をし、みえは十五の娘らしい振舞いで母を手伝う。 喜一郎の中に父の面影がふと重なる。亮之進は鼻の奥がじんと痛くなるような懐かしさを覚えた。
「お前は、いつも父上に可愛がられていただろう、俺はそれを心底羨ましいと思っていた。自由に生き方を選ぶお前を妬ましくも思っていた。人にはそれぞれの生き方があって、それが任にあったものになっていることが、今となってはよく分かる」
喜之介がしみじみと言い、亮之進は兄の猪口に酒を注ぐ。
人にはそれぞれの生き方がある…その通りだ。父が武士として家を守るため自死して果てた後、慌ただしく跡を継ぐほか無かった喜之介である。
「雪乃殿は、父親の失態…いやそれとていわれのないものだったかも…それでもその為に婚家を追われた過去があります。本人の意思に反して人生は変わることがあるのですね」 喜之介は猪口を口から離し、亮之進を見た。
「そういう人だからこそ、人の立場に立った上で、その痛みが分かるのだろう。お前には何よりの嫁御だな」
亮之進は、兄の温かさに胸を熱くし頭を下げた。
養生所に暑い夏の盛りがやってきた。伊佐知は三月になり、時折可愛い笑い声をたてる。 源平店ではお産が続き、どの母親も皆快く貰い乳に応じてくれたため、伊佐知は大きく、そして健やかに育っている。
たきは、目立ち始めたお腹を庇いながらも甲斐甲斐しく働いて、鞆哉や久右衛門にくれぐれも無理をしないようにと、気遣われている。
雪乃には、そんな養生所での暮らしのすべてが愛おしく思える。 亮之進と雪乃は、養生所の皆に婚姻を伝えただけで、取り立てて祝言を挙げることもなく、養生所での日々を過ごしている。
奉行には祝言をしないとは…と渋い顔をされたが、雪乃がそれで良いのならと渋々納得し、今では伊佐知に会いたいと、度々養生所を訪れるようになった。
亮之進と一緒に初瀬の家を訪れた雪乃に、母の奈緒は大切に桐箱にしまっていた一枚の袱紗を渡した。
「お父様が亮之進が妻を娶ったとき、嫁に渡して欲しいと用意されていたものです」
袱紗には初瀬の紋と、喜三郎の文字で「睦く」と書かれてあった。
「喜之介と亮之進二人のために、お父様は二枚の袱紗を用意されたのですよ。雪乃さん、亮之進をよろしくお願いいたします」
雪乃はその薄紫の袱紗を押し頂いた。喜三郎の気持がこもっている袱紗はほの温かな手触りで、雪乃の胸を熱くした。
伊佐知がやっと眠った夜、雪乃と亮之進は静かに二人の時間を過ごしている。いつものように茶を淹れる雪乃の穏やかな表情に、重ねた年月は決して無駄ではなかったと、亮之進は確信する。
「夏の盛りが過ぎて、少ししのぎやすくなったら、お父様のお墓にお連れください」
「そうですね…雪乃殿のご両親の墓にも、報告しなくては」
「伊佐知は、私どもに若葉風を運んでくれた恩人ですね。大切に育てなくては…亮之進様、これからもどうぞよろしくお願いいたします」
「私の方こそ、末永くよろしくお願いします」
頭を下げあって、二人は笑った。雪乃の結い上げた髪を飾っているのは、亮之進がずっと渡せずにいた簪だ。
「明日も良いお天気になりそう」
障子をそっと開けて空を仰いだ二人の頬を、心地良い風が撫でる。 その涼やかな風に吹かれる二人を、柔らかな月の光が優しく照らしていた。 了

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