養生所覚書~朧月~
- sakae23
- 2025年7月5日
- 読了時間: 36分
更新日:2025年12月4日
養生所の朝は早い。新しい年になったと思う間もなく、あっという間に如月が過ぎ去った。
朝の見回りを終えて薬園を巡る、早朝のこの時間を雪乃は好ましく思う。少しずつ風がやわらかくなっている。薬園では冬を耐えた薬草たちが目を覚ますように芽吹き始め、木々も仄温い芽を膨らませている。いよいよ春本番である。
薬園を回って雪乃が養生所に戻ると、たきが薬を煎じる準備に取り掛かっている。
「あら、たきさんおはようございます。お早いのね」
「おはようございます。今朝は早くから目が覚めてしまって……雪乃様は薬園でしたか」
「ええ、もうすっかり春めいてきましたよ」
たきはこのところ眠れないことが多いようで、雪乃はそれを心配している。眠れないことの理由が何なのか、おおよその察しはついているのだが、たきが話さない以上雪乃はそれには触れずにいるつもりなのだ。
数日前のこと、雪乃は初瀬亮之進に四方鞆哉のことで相談を受けていた。
「四方はここの所心ここにあらずで、何かあると思ってはいたのですが、あの萩の上が原因だったようで…」
「萩の上太夫…?」
「実は落合殿が身罷られ、萩の上…いや、みきさんが屋敷を出たらしいのです」
四方鞆哉と萩の上太夫のことは萩の上の禿だったはなの件があった後、亮之進に打ち明けられ、つくづく人の縁の不思議さを感じたものだがそれは過ぎ去ったことであったはずだ。鞆哉とたきの間を静かに見守っていた雪乃としては、心中穏やかではなかった。鞆哉ははなからの文で、萩の上が自由の身になったことを知ったのだという。
「四方様は萩の上太夫のことを…今もお忘れではないのでしょうか」
「いや、四方の気持は決まっていると思っておりましたが…はなさんからの文でそう書いてあったと言うだけで、それきり萩の上太夫のことは何も話さないのです。それでもやはり気にはなるようで、それだからこそ気がかりなのです」
「たきさんは、そのことをご存知なのでしょうか」
「それは…どうなのか…」
そういえば、ここ数日たきは物思いにふけることが多くなったように思える。雪乃は鞆哉の気持を測りかねていた。
たきを思っているのなら、萩の上に心を動かして欲しくはなかった。鞆哉に一度訊ねてみようかとも考えたが、二人の間のことであり、それも憚られた。
それでたきの様子に胸を痛めながらも、気付かないふりでここ数日を過ごしているのだ。
たきが萩の上と鞆哉のことを知ったのは、はなが養生所から消えた後に鞆哉に送った文からだった。鞆哉は詳しくは話さなかったが、はなの文をたきに見せてくれたのだ。
文には萩の上の郷ではなは直吉と所帯を持ったこと、そして萩の上の妹のきわからだと、姉と鞆哉の幸せを奪ってしまったことを知り後悔しているとの言付けが添えられていた。
たきは萩の上の身請けが、妹のためであったことを旦那であった総衛門から聞いたことがあったので、その状況も吞み込めた。
その後たきは、鞆哉に医術のことや薬草のことなどを、いろいろと教わっている。総衛門のいなくなった淋しさを埋めるだけでなく、生きることの意味自体を鞆哉と過ごす時間で改めて感じることが多くなっていた。
そして鞆哉もまたたきによって安らぐ日々を過ごしていた。萩の上と出会い萩の上の年季が明けて共に暮らすことをただ一つの希望として日々を送ったことも真実である。ただ幼少期、理不尽な仕打ちによって母と兄を失った鞆哉は、母と面差しのどこか似ている萩の上にその面影を重ねていたのでは…と考えることもある。
突然に去られた胸の痛みは少しずつ薄らぎ、たきと二人の時を過ごすほどにその思いは強くなっていった。
鞆哉はたきを妻にと考えている。もうかなり前から心は決まっていたはずなのだ。ただ、はなの文には萩の上が郷に戻ったとあり、そのことにどうしようもなく胸が騒ぐ。
萩の上は息災なのか、どのように暮らしているのか。それが気になってしまうのだ。
いつものように入所者達の朝餉を運ぶたきは明るく振舞い、雪乃はいつも通りにたきと接し養生所の一日が過ぎていく。
「雪乃様、少しお話ししてもよろしいですか」
昼の見回りの後、たきが雪乃に話しかける。
「私もたきさんにお話ししたいことがありました。お茶でも点てましょう」
茶室には遅咲きの椿が一輪活けてある。この茶室は雪乃の心を鎮める場であり、たきにとっても素直に胸の内を打ち明けられる部屋でもある。
雪乃は静かに茶を点て、たきの前に置く。茶を飲むたきの目が涙で潤むのを見て雪乃が切り出す。
「たきさん、何か心配ごとでも…?」
「私…四方様に妻になって欲しいと言われました」
雪乃は思わず持っていた茶碗を取り落としそうになるほど驚き、たきを見た。
「えっ、それは…まあ。それで、たきさんは何とお答えなさったのですか」
「私のような者に、もったいないお話です。でも…本当にそれで良いのか、私で良いのか…それに、萩の上太夫のことも…四方様は気にかかっておいでなのです」
「太夫のことを四方様は何とおっしゃっているのですか」
「はなさんの便りで、太夫が郷に戻られたことを知ったと、私にも伝えてくださいました。それ以外は何も…でも私には四方様の気持が揺れておいでなのがわかります」
「たきさんは、四方様を信じていらっしゃるのでしょ。実は萩の上太夫が戻られたことは私もお聞きしておりました。それで本当は少し心配していましたの。四方様に申し訳ないことをしました」
「萩の上…いえ…みきさんのこと、私も…四方様を信頼しているのに、どうしても気にかかるのです。それに、四方様は千駄ヶ谷へ行かれるらしくて」
千駄ヶ谷は、はなが所帯を持っているという萩の上の郷である。
「千駄ヶ谷に…どうして」
たきはわからないというように雪乃を見て、目を伏せた。
「いつ行かれるとおっしゃっているのですか」
「玄琢先生と初瀬先生のご都合をうかがって出かけて来ると…」
「そう…大丈夫ですよ。四方様には何かお考えがあるのでしょう。たきさん、心配せずに四方様にお任せしましょう」
たきは少し安心したように頷き、茶を飲みほした。
薬草を煎じるために部屋に戻ったたきを見送り、雪乃は亮之進の部屋を訪れた。
「四方様のことでお話があるのですが」
「四方の…?」
雪乃は鞆哉が萩の上に会おうとしていることを亮之進に告げ、何か話を聞いていないか訊ねた。
「そういえば、数日留守にするとは聞きましたが、大夫の郷へ行くなどとは、まったく聞いていません」
「そうですか、いつ行かれるのでしょうか」
「玄琢先生の都合に合わせて、また日にちは知らせるとのことでした。しかし、四方は何を考えているのでしょう」
「四方様は、たきさんに妻になるようおっしゃったそうですよ」
「なんと、それも聞いていない。あいつ…でも、それならどうして太夫に会いに行くのですか、まったく、いったい四方はどうしたいのか」
「萩の上太夫とのことを、はっきりとさせたいとお考えなのではないでしょうか。たきさんを大切に思われていることには間違いはないでしょうから」
「それにしても、今さら…私には四方の気持はわかりません」
亮之進はそこに四方がいるように、雪乃を睨んだ。
「まあ亮之進様、そのように怖い顔をされなくても、四方様は信頼おける方ではありませんか。私もたきさんにお話を伺うまでは、ほんの少し四方様を疑いました。申し訳ないけれど…でも、四方様はたきさんを妻にと望まれたとのこと。私はそれできっと四方様には何かお考えがあるのだと、安心いたしました」
亮之進はそれでもまだ納得できないという風に雪乃を見て、明日もう一度鞆哉に意向を訊ねると言う。雪乃は頷いて、亮之進の部屋を離れた。
翌日鞆哉は亮之進と向き合っていた。
「たきさんを妻にと申し出たのはまことか」
「雪乃殿に聞いたのか…そのつもりだ。あの人は私には過ぎた人だ」
「それなら、何故萩の上に会う」
鞆哉は少し驚いて亮之進を見た。
「何故…と言われても…どうしても気になるのだ。太夫が今どうしているのか、どのような暮しをしているのか」
「四方、それを知ってどうするのだ。たきさんの気持も考えろよ、どのように思うか分からない訳はなかろう」
そうかもしれない。だが、どうしても萩の上の今を見届けたい。そして萩の上とのことをあやふやなままでなく、しっかりと自分の中でけじめをつけるべきだと鞆哉は考えていた。
吉原では流行り病のために多くの女たちが命を落としたことがあった。萩の上のいた松見屋も同様で、医師の玄琢とともに鞆哉も松見屋に詰めたことがある。
そしてその時、禿として萩の上のもとにいたはながその病にかかり、鞆哉が治療にあたったのだ。流行り病のため萩の上ははなから離されたが、毎日様子を鞆哉に訊ねた。まるで我が子を気遣う母親のようだと鞆哉は思った。
多くの患者が亡くなる中で、奇跡的にはなは回復した。
萩の上とはその後、玄琢とともに松見屋を訪れる際に顔を合わせる程度ではあったが、鞆哉の胸の中で萩の上の存在は日に日に大きくなっていった。
はなの看護にあたっていた時は、萩の上と語り合うことができた。同じ歳であることもまた二人の間を急速に縮める原因ともなったのか、二人はお互いへの思いを募らせていったのだ。
その頃萩の上太夫は松の位として誰もが認める太夫であり、鞆哉などがどうすることもできない高嶺の花であったが、それでも二人は、年季が明ければきっと一緒になろうと強く約束をしたのだ。
年季が明けるまでは松見屋の太夫として客を取る、それは納得しなくてはいけないことではあったが、鞆哉にとってももちろん萩の上にとっても辛いことには違いなかった。
それでも二人には年季が明けたら、晴れて大門を潜り、ささやかでも二人で暮らしたいという夢があったのだ。
その夢はあの日突然に潰えた。萩の上からは短い別れの文が届いただけで、鞆哉は理由もわからず、あきらめるしかなかった。大きな金子が動いたらしいということは理解できた。そして、それがとても自分の太刀打ちできることではないことに打ちのめされもした。
後になって、たきからその萩の上の身請けが妹を助けるものだったと聞いたが、そのころにはやっと痛みを伴わずに、萩の上を思い出せるようになっていたことも事実なのだ。
その萩の上がみきとして郷に戻っているという。だからどうしたというのだ…そう思いながらも鞆哉は重い気持ちを持て余していた。
たきを大切に思う気持ちに嘘はない。だからといって萩の上に対して抱いていた思いが間違いであったとは思えないのだ。
とにかく萩の上に会って、自分の気持にけじめをつけたい。それが本音であった。
玄琢に許しを得て、鞆哉が千駄ヶ谷に向かったのはそれから二日後のことだ。
萩の上の郷は千駄ヶ谷のはずれで、仙寿院にほど近い処だと聞いていた。
仙寿院の近くに母方の従弟にあたる和泉助衛門の屋敷があることも、鞆哉の背中を押したのだ。助衛門とはもう長く会っていなかったが、母が健在であった頃には、叔母と一緒に宮前の家を訪れ年も近かったためよく遊んだものだ。
宮前の家が実質乗っ取られ、母が身罷った時にも鞆哉を引き取ると申し出てくれた叔母であったが、元服を済ませていた鞆哉はひとり暮らす道を選び、その叔母も五年前に身罷った。従弟の助衛門は和泉志三郎の養子となり志三郎の娘を娶って七年になるはずである。鞆哉はその助衛門に所用で千駄ヶ谷に赴く旨の文を送っていた。
朝の内に小石川を出たので、夕刻には千駄ヶ谷に着くだろう。鞆哉は出来る限りゆっくりと歩を進めた。
萩の上に会って何を話す…頭の中でそればかりを考えている。萩の上…いや、みきはどのような暮しをしているのだろうか。自分のことをまだ忘れずにいるのだろうか。それよりも今、自分はみきとは違う女を妻に迎えようとしていることを、どのように話すつもりなのか。そしてそれを聞いてみきはどう思うのだろうか。
亮之進の言う通り、自分のしようとしていることは、みきにとってもたきにとっても酷なことのように思えてくる。自然と足どりは重くなる。
助衛門の屋敷に着いたのは戌の刻あたりであったが、助衛門は涙を浮かべながら鞆哉を招き入れた。叔母の葬儀で顔を合わせたのを最後に会う事もなかったのに優しい男だ。
「ご無沙汰しております。叔母上の法事にも参列できず不義理をいたしました。どうぞお赦しください」
「赦すも赦さぬも、母の病のときにはいろいろとお力添えいただき感謝しかありません。それにこちらこそ不義理ばかりで、心苦しく思っておりました。今日はおいでいただき心底嬉しく思っています」
助衛門の妻のさゑも夜分にかかわらず、嫌な顔ひとつせず酒の用意をし、夜具を整えてくれる。
宮前の家を去ると同時に武士を捨て、医師四方鞆哉として生きることを決めた時に、宮前に繋がるすべてをも捨てると決心した鞆哉である。
そんな鞆哉を温かく迎えてくれる助衛門と向き合うと、鞆哉はあらためて血の繋がりを感じずにいられなかった。助衛門はどこか兄の伊織に似ている…鞆哉は鼻の奥がつんと痛くなるのをかろうじて堪えた。
翌朝、朝餉を馳走になり鞆哉はさっそく仙寿院門前のはなを訪ねることにした。助衛門の屋敷から鉄砲場を過ぎればもう仙寿院は目の前である。
門前に植木屋や庭師の集まる一角があり、はなと直吉もまたその辺りに暮らしているだろうと鞆哉は踏んでいる。みきの妹きわの亭主である弥吉は腕の良い植木職人で、その弥吉の肝いりで直吉は仕事をしていると、はなの文にあったからだ。
比較的大店の植木屋で直吉のことを訊ねてみると、案外簡単に住まいを知ることができた。
はなと直吉が住んでいるのは、表通りから少し離れた植辰店という名の付いた裏店だった。奥から二番目だと教えられたので、迷うことなく声をかけることができた。
「はなさん」
中で人が動く気配とともに、がたがたと戸が揺れてはなが姿を現した。
「四方先生…どうして…」
はなは一瞬驚いた目で鞆哉を見たが、すぐに両手で口元を覆った。見開いた目にみるみる涙があふれた。
「変わりはないですか。直吉さんも…」
「先生には何といってお詫びすればよいのか…本当にご迷惑をおかけして、あんなに良くしていただいたのに」
「そのことはもう良いのですよ。誰も何も思っていません。今が良いのならそれが一番なのですよ」
はなは、少し安心したように頭を下げ、中へ入るように言う。
「うちの人はさっき仕事に出たところで…中食時には帰ってくるので、先生どうぞゆっくりなさってくださいね」
はなはすっかり廓言葉も抜けていて、顔つきも明るい。きっと良い女房として直吉を助けているのだろう。
茶を淹れて鞆哉の前に置きながら、「あの…太夫のことで?」とはなは鞆哉の顔を窺うように見る。
「萩の上…いや、みきさんが戻っておられるのは本当ですか」
「はい、落合様の屋敷を追われてここに…」
「そうか、妹の所ではなく、はなさんのところへ…」
「きわさんが、気詰まりだろうと思われたのでしょう」
「それで、みきさんは今どうしておられるのですか」
「先生、みきさんに会いにいらしたのですか」
はなはまっすぐに鞆哉を見てそう訊ねた。
「会いたいと思っています」
鞆哉もその目をまっすぐに受けて答える。
「四方先生らしい…」はなは、ふっと笑った。
みきは門前を出て少し南に行ったところにある、竜岩寺の表参道に居を構えているという。
「落合様では、殿様が亡くなられてお家は嫡男でいらっしゃる若殿が跡目を継がれました。当然太夫はお家にはいられなくなりましたが、側室でいらっしゃったのですから、後々に困らないだけのことは落合家からお受けです。もちろん落合様のお家とはもう何の関わりは無いという念書を交して自由の身になられています。それでも…私などとはまったく…みきさんとなられても…やはり太夫は太夫です」
はなは、鞆哉にそう話した。
この地はみきの郷ではあるけれど、みきは六つの時に女衒に売られたと聞いた。みきにとっては懐かしい場所というだけではないのかもしれない。鞆哉ははじめてそのことに気付いた。
はなの言う通り、竜岩寺の表参道に面した処にみきの住居はあった。その場所は直参と見られる屋敷の正門に続いており、その辺りの町家とは趣きを違えていた。
鞆哉は少し躊躇った後に、その表戸を叩いた。
しばらく待つと、表戸が開いて小袖姿の女が姿を見せた。
「あの、こちらにみき殿がおられるとお聞きしたのですが…」
「みき様…はい奥様はおられますが、どちら様でいらっしゃいますか」
「養生所の四方とお伝え願いたい」
「少しお待ちくださいませ」
表戸の外側で鞆哉は途方に暮れた。みきは自分などが気安く会える相手ではないのだ。今更ながらにその思いが強くなる。
「どうぞ、お入りくださいませ」
ふたたび姿を見せた女中が鞆哉を中に招き入れる。中はさほど広くはないが、良質な調度品の部屋だ。鞆哉はまた居心地の悪さに襲われる。
襖が開き、みきが静かに座り手をついて頭を下げた。髪を高島田に結い、薄紫の無地のお召を身に付けたみきは変わらず美しかった。
「四方様、その節のご無礼を、どうぞお赦しください」
顔を上げたみきは鞆哉を真直ぐに見て言う。
「太夫…いやみきさんそのことはもう…子細はわかっておりますから。それに今お会いして、落合様の許でみきさんがどのように暮らしておられたのか、容易に察しできました」
鞆哉もみきを真直ぐに見て答えた。
みきはふわりと笑った。その顔はあのころ鞆哉に見せた萩の上の顔そのものだ。
「私は四方様とのお約束を反故にしてしまったことを、心底申し訳なく思っておりました。それは偽りではございません。でも…もしも何事もなく四方様の許にお連れいただいても、私は貴方様をしっかりとお支えできたのかと…そのようにも考えておりました」
「それは…」
「私は六つの時から廓暮しをしておりましたもの、廓での作法や芸事のことはわかっても、外のことは何も知らず育ちました。四方様には相応しい方がきっとおありだと…そう考えることで、私は貴方様を思い切ることができたのです」
鞆哉は、あの日の失望と憤りを思い出していた。自分との約束を反故にして金の為に落合に落籍される萩の上を恨みもした。
そしてそれが廓のやり方なのだと、自分を納得させるほか無かったのだ。
「みきさんは、大切にされておられたのですね」
「落合の殿様はお優しいお方でした。私を娘のように扱ってくださいました。病を得られてからも、私の立場が悪くならないように長谷川様に取り計らってくださり、身罷られた後にも、此処に居を構えることができたのです」
「それで…あまりに立派な住まいで、少々気詰まりに思っておりました」
みきはまた少し笑い、そして茶を持って来るように先ほどの女中に伝えた。
「落合様の屋敷で私に付いていてくれたさきさんです。こちらに住まいを移してからも一緒にいてくれるので助かります」
「はなさんも近くにいて、心丈夫でしょう」
「はい、はなが四方様にご迷惑をおかけしたこと、聞いております。何とお詫びすればよいのか…養生所の方々にも大変なご足労をおかけしたことでしょう」
「皆、それは心配しました。でも無事に逃げ果せたことを喜んでいるのですよ。もっともそれを公にはできませんが…」
「はなは私を姉のように思っているのでしょう。良くしてくれます。四方様はじめ養生所の皆様には感謝しかありません」
みきはまた頭を下げた。
みきがどのような暮しをしているのか、不自由な思いをしているのではないだろうか、そんな思いで会いに来た。
だが、みきは満ち足りた日々を送っている。落籍された後もそして自由の身となった今も。
鞆哉のことなどすでにみきの中には微塵も無いのだ。もしもみきの中に自分への思いが少しでもあるのなら、忘れて欲しいと詫びるつもりでいた。鞆哉はそんな自分を心底恥じるしかなかった。
たきは今日も甲斐甲斐しく病人の看護をしている。雪乃はその姿を見ながらふっとため息をついた。鞆哉はもうみきに会っただろうか。二人はどのような話しをしているのだろうか。きっとたきも同じことを思い、不安を隠しているに違いない。雪乃はただだまって見守るしかなかった。
「皆さんのご様子はいかがでしたか」
昼過ぎの見廻りを終え、調合部屋に戻ってきたたきに雪乃は訊ねた。
「はい、皆さん特に気になるところはありませんでした。夜眠れなかったと言われるおとくさんは、お薬が効いているのかぐっすりとお休みでしたよ」
「そう、それは良かった。箕助さんの足の具合も相変わらず?」
「箕助さん、今日は少し歩いたとか…痛みも少し薄らいだと言われてます」
おとくは入所者の中で最高齢の患者で、軽い卒中で入所したが幸い命を長らえたのだ。息子夫婦の手を煩わせたくないと、もうしばらく養生所に置いて欲しいと懇願され今に至っている。箕助は屋根から滑り落ちて足を負傷している。二晩痛みに苦しんだが痛みを和らげる薬湯がいくらか効いているようだ。
たきは入所者の事を詳細に告げてくれるので助かると、亮之進が雪乃に言ったことがあったが、まったくその通りだと雪乃も思う。
「四方様はいつお戻りなのでしょう」
薬湯を煎じながら、雪乃はさりげなく聞いてみる。
「さあ、はっきりとはうかがっていませんが、千駄ヶ谷にはご親戚がおられるとのことなので、もしかすると長くなられるかも知れません」
「まあ、そうなのですか。でもあまり長くなると玄琢先生がお困りではないでしょうか。養生所は今のところ何とかなっておりますけれど」
たきは雪乃の言葉に頷いて、少し困ったように顔を伏せる。
「四方先生のことですから、きっとそのあたりはお心にかけておられますよね。ごめんなさいね、おかしなことを言って」
雪乃は慌ててそう言い繕い、たきは頭を振って笑顔を作った。その顔は今までよりもいっそう美しく、眩しいほどだ。
たきに薬湯を任せ、雪乃は亮之進の部屋に向かった。昼食後の自由な時間で亮之進は部屋で書物を読んでいる最中だった。雪乃は小さく声を掛けて障子を開けた。
「雪乃殿、どうされましたか」
「ご本をお読みでしたか、お邪魔ではなかったですか」
「いや、そんなことはありませんよ。何かありましたか」
「もしよろしければ、お茶を一服差し上げようかと…」
亮之進は少し微笑んで大きく頷く。雪乃はこの亮之進の笑顔が心底好きだと思う。
何か気掛かりなことがあっても、亮之進の笑顔を見ると、気持ちが落ち着き平常を取り戻せるような気がするのだ。
茶室に入ると背筋がすっと伸びるようで、雪乃は深く息を吸う。茶花入れに白の侘助が愛らしい。
「四方の事ですか…」
茶を飲み干して亮之進が雪乃に訊ねる。
「はい、先程たきさんにいらないことを言ってしまいました。四方様はいつ戻られるか…と」
「それ程長く留守にはしないでしょう。養生所もですが、何より玄琢先生の迷惑にならないように考えているはずですから」
「そうですね。みきさんとはどのような話しをなさっているのか、私はどうも良くないことばかり考えてしまって、たきさんの気持を考えると…」
「やれやれ、雪乃殿はたきさんのこととなると、まるで人が変ったようだ」
亮之進は笑うが、雪乃はそんな亮之進を軽くにらみ、自分のことならこのように思い悩むこともないのに、と俯いた。
「四方はたきさんを妻にすると決めた以上、そうそう心変わりをするような男ではありませんよ。いや、むしろたきさんを大切に思うからこそ、けじめをつけようと思っているのでしょう。あいつはそういう男なのです。私は四方を信じますよ」
これは鞆哉がみきに会いに行くと聞いた時、心配する亮之進に雪乃が言った言葉と同じではないか。雪乃は思わずくすりと笑って亮之進を見た。
「何か、おかしいですか」
「いえ…その通りですね。四方様を信じてお待ちしましょう」
雪乃は二服目のお茶を少し薄めに点てて、亮之進の前に置いた。
みきの住居を後にして南に向かって歩いていると、煮売り屋や食べ物屋が並ぶ通りに出た。鞆哉は一つ大きなため息をつき立ち止まる。
空腹ではなかったが、その中の一軒の小見世で蕎麦をたぐった。不意にたきの顔が浮かぶ。養生所からの帰り道、二人で時々蕎麦を食べた。たきは料理上手で、よく手料理を振舞ってくれたが、蕎麦はやっぱり蕎麦屋でなくては…と気に入りの蕎麦屋を教えてくれた。美味そうに蕎麦をたぐるたきを鞆哉は微笑ましく好ましく思ったのだ。
もしもみきが今でも自分のことを忘れずに思い続けていたなら、自分はどうしたのだろうか。みきの凛とした居住いから自分などは入り込む隙のないことは充分わかった。
そして、そのことで鞆哉は正直安堵したのだ。
「まったく…我ながら嫌な男だ」鞆哉は小さくつぶやいた。
蕎麦屋を出て、はなの住まいへ向かう。直吉はもう仕事に戻っただろうが、はなにひと言礼を言いたかった。
「四方先生、良かった。うちの人がどうしてもお会いしたいとお待ちしていたのですよ」
はなの後ろから直吉が顔を覗かせる。優しそうな笑顔だ。
「いろいろとご迷惑をおかけし、申し訳ありません。ご恩は生涯忘れません」
上がっていくように促されて、少しだけと上がった部屋で直吉は改めて頭を下げる。
「太夫…みきさんとは?」
はなが茶を入れながら訪ねる。
「はい、お会いしてきました。お元気そうで安心しました」
「みきさんは何と…」
「自分は満ち足りた暮しをしていると、はなさんにもよくしてもらっていると言われていましたよ」
はなは頷いて、「みきさんのことはどうぞご心配なさらないように」と鞆哉に言う。
鞆哉も素直にその言葉に頭を下げた。
みきにとっては、はなも直吉も年の離れた妹弟同様なのだろう。初めて会う直吉は考えていた以上に誠実そうな男で、鞆哉はそのことにも安堵していた。
ゆっくりしていくように言ってくれるはなに礼を言い、植辰店を後にした鞆哉は急ぎ足で助衛門の屋敷へ向かった。
助衛門は昼餉を終え、庭に出て植木の手入をしている所だった。
「お知り合いには会えましたか」
「はい、皆に会えて安心しました。これで心残りなく戻れます」
助衛門は人懐っこい笑顔で頷き、縁側に座った。
「良い庭だ…」
「さゑの花好きは筋金入りで、しかも注文が多くて大変ですよ」
笑いながら言う助衛門に、茶と菓子を持ってきたさゑは「あら、そんなこと」と頬を膨らませる。
宮前に居る頃は母も花や樹木を好んだものだ。宮前の家の庭もこの庭のように手入が行き届いていた。鞆哉は捨てたはずの昔を…母の顔を思い出していた。
「実は婚姻から七年、私共は子を授かることができませんでした。それが…この度さゑが子を宿しました」
「何と!それはめでたい。産み月は?」
「葉月には…」
さゑは少し顔を赤らめて、小さな声でそう伝える。
「葉月…良い時候だ…どうぞ大事にしてください」
助衛門は良い家庭を築いている。初秋には元気な赤子の声がこの屋敷に響き渡ることだろう。
泊まっていくようにと強く引き留められたが、今なら木戸が開いている内に小石川に戻れるからと、鞆哉は急ぎ帰路についた。
養生所は穏やかな夕暮れを迎えていた。特に心配な患者もいないため、雪乃はたきに早めに上がるように言う。
たきは夕食を皆と一緒にとり、いつもより早めに帰路についた。
一人の部屋は心もとない。旦那を待つ身であった時も一人は寂しいと感じたけれど、この胸の騒めきは何なのだろう。その気持をたきは持て余していた。
鞆哉は今ごろ何をしているのだろうか。萩の上とはどのような話しをしているのだろうか。
廓に身を置き、旦那の庇護を受けていた自分が、そのような思いを持ってはいけないことはわかっている。それでも胸が騒ぎ、どうすることもできないのだ。
たきは久々に三味線を取出し、爪弾く。
「愚痴な女子の心も知らず しんと更けたる鐘の音…」
総衛門の好んだ曲だ。爪弾きを止めてたきはため息をつく。鞆哉は旦那のことも知った上で、自分を妻にと言ってくれたのではないか。
それなのに、自分は萩の上に悋気している。それが情けなかった。信じているのに、何故穏やかに待つことができないのだろう。
「大丈夫よ、信じて待ちましょう」
たきは声に出して自分自身に言い、三味線の糸を緩めた。駒を外し手ぬぐいで丁寧に棹を拭くと不思議と心が穏やかになるのがわかった。
そのとき、ふと早足の足音が聞こえたような気がして、耳を澄ませる。足音は表戸の前で止まった。たきは少し身を硬くして身構える。
「たきさん」
戸の向こうで自分を呼ぶのは、鞆哉の声だ。たきは小走りに駆け下り表戸を開けた。
「四方様」
急いで歩いたのであろう、少し上気した鞆哉の笑顔がそこにあった。
「もう少し早く帰れると思いましたが、思いのほか遅くなりました」
たきの目にみるみる涙が溢れる。
「たきさん?」鞆哉の声が少し曇った。たきは慌てて涙を拭い「お帰りなさいませ」と微笑む。
「お茶をお淹れしましょう」
「ありがとう、養生所に戻る前にどうしてもたきさんに会いたくで…茶は明日あらためていただきます。亮之進がいらいらしていることでしょう。病人に変わりはないですか」
「はい、何も変わりはありません。初瀬先生も雪乃様も確かに四方様をお待ちですけれど…私のことを思って何もおっしゃいませんでした」
「そうでしょうね。まずは養生所に戻って、子細を話さねば…たきさんは、その…私のことを」
「はい、信じてお待ちしておりました」
鞆哉は大きく頷いて、早く休むようにと言い置き養生所へ向かった。
四方様らしい…
たきはその背を見送りながら、心底鞆哉を好ましいと思う。子細を聞くまでもなく、鞆哉は太夫とのことに答えを出したのであろう。
明日は美味しいお茶を淹れてあげよう。表戸を閉めながらたきはまたそっと涙をぬぐった。
養生所では、突然に戻ってきた鞆哉に雪乃も亮之進も驚きを隠せない。
「四方様、まあ!このような時間に…いえ、その…お帰りなさいませ」
雪乃にしては、珍しく慌てて招き入れ、小走りで亮之進を呼びに行く。亮之進も慌ててやって来た。
「四方、まだ三日だぞ。やけに早いではないか…どうした」
「いや、どうしても今日中に帰ろうと思ったもので、引き留められはしたが…それにしても思いの外時がかかってしまった」
「そうか、それでどうだったのだ。太夫に会えたのか」
「会えた。はなさんにも」
「はなさん、お元気でお暮しでしたか」
茶を淹れながら雪乃が言う。
「はい。直吉と二人、養生所にも迷惑をかけたと心底詫びていました」
「そうですか…よかった」
「そして…みきさんは…落合殿の保護のもと、心穏やかにお過ごしでした」
「心穏やかに、だと」
雪乃が何か言おうとするより先に、亮之進が鞆哉に詰め寄った。
「お前への謝罪はあったのか。どのような話しをしたのだ。たきさんのことは…」
鞆哉は苦笑いしながら、二人にみきとのことをありのままに話した。
「みきさんは、私との約束を反故にしたことを心より詫びてくれ、今は不自由なく暮らしていると言ったし、実際にその通りの暮らしぶりだった」
雪乃は頷き、亮之進は大きなため息をついた。
「それで、たきさんのことは…?」
「いや、みきさんにもはなさんにも話さなかった」
「何故だ。それでは何のために太夫に会いに行ったのだ。たきさんと祝言を挙げることを伝えるのではなかったのか」
「それは、必要のない事だと思い知った。みきさんの中では、私とのことはすっかり過去のこととして忘れ去られてしまったらしい」
「そんな…」
雪乃が小さくつぶやく。
「太夫がお前のことを忘れて、今穏やかに暮らしているとわかったから、お前も心おきなくたきさんと…そう考えているのか。たきさんの気持をどう考える」
吾一や文吉に聞こえないように、少し声を落して亮之進は鞆哉に詰め寄った。
「そうではない。ただ、みきさんがまだあの頃の気持のままだったら、私は素直に今の自分の気持を伝えようと思っていた。自分を忘れてくれるようにと…だが、みきさんは、一人でしっかりと生きておられた。太夫はやはり太夫で、私は心底自分を恥じるしかなかった…」
「みきさんにとって、落合様との日々はお幸せだったのですね」
雪乃が穏やかに言う。
鞆哉は頷き、茶を一口飲んだ。
「自分のことを未練に思っているのではないか…などとんだ考え違いをしてしまい、たきさんにも不安な思いをさせてしまいました」
「たきさんは四方様を信じておられましたよ。でもこの先みきさんのことを案じられることの方が、たきさんにとっては心穏やかではなかったでしょうから、みきさんのご様子が分かって良かったのではないですか」
「みきさん、いや萩の上太夫は、あの頃とちっとも変わらず、凛として気高い方でした。そしてその暮しが似合う…自分が入り込む余地などない。もちろん、そんなことは分かっていたはずなのに…もしかして、寂しい暮らしをしているのではないかと、母のように病を得ているのではないか…そんな風にも考えて、まったく馬鹿ですね」
雪乃は鞆哉の心根を思い涙ぐんだ。
「本当に、お前というやつは…たきさんに充分に詫びろよ」
亮之進はあきれたように言ったが、松見屋での鞆哉と萩の上を知っているだけに鞆哉の気持は痛い程分かった。
「明日はたきさんにもしっかりと話すつもりだ。さっき帰ったことだけは伝えてきたので…」
「まあ」「なんと」
雪乃と亮之進が同時に言い、顔を見合わせる。
「やれやれ、何故たきさんに先にそれを話さん。たきさんはその答えを待っておるというのに」
「たきさんは四方様を信じておられたのですから、お戻りを喜ばれたでしょう」
「はい、今日はもう時間も遅いので…明日はきちんと詫びるつもりです。ただ自分の中ではたきさんの存在がどれだけ大きいかも重々思い知りました」
雪乃は微笑んで、それは良かったこと…と小さくつぶやいた。
「さて…と病人たちの様子を見て来るとしよう。初瀬には迷惑をかけたからな」
「今夜は皆穏やかで、先ほど見回ったばかりだ。それにもう少し長引くのではと思っていたので…助かる。お前も疲れただろう」
二人の優しさが雪乃の胸を熱くする。明日は晴れ晴れとした表情のたきに会えることだろう。
雪乃は部屋に戻って空を見上げた。やわらかな光を纏う月が美しい。近いうちに、たきは美しい花嫁になるだろう。雪乃はその月にたきの幸せをそっと願った。
「太夫、本当にあれでよろしかったのですか…」
朝からみきの元を訪れたはなは、美しい所作で茶を点てているみきに話し掛ける。
「え…?」
「四方先生のこと、私にはわかっておりますよ。本当に…太夫のことなら私は何でもお見通しなのですから」
「あら、はなに何がわかっているというの。それに私はもう太夫ではないでしょう」
「だって、私にとって太夫はどうしたって太夫ですもの。四方先生もちっともお変わりなくて、私は先生が太夫をお迎えにいらしたのかと思っていたのですよ」
「本当に、あの方はちっともお変わりにならない、あんなひどい仕打ちをした私に、恨み言の一つも仰らないで」
みきの目が少し潤む。
「それは、仕方のないことだったのですもの。四方先生もわかってくださっていますよ。せっかくここまでいらしたのに……」
「あの方は今、お幸せなのでしょう。それに…四方様に必要なのは私のような者ではなくて、心も身体も心底あの方をお支えできる方なのですよ。はなが直吉を、きわが弥吉さんを支えているように」
「そんなこと…太夫だって…」
「私は太夫…どこまでも、この生き方しかできないもの。きっとあの方にとって、いつか重荷になってしまう。はなだってそう思っているくせに」
みきはそう言って、少し笑った。
「でもね、はな。私は嬉しかった。あの方のお気持が本当は嬉しかったことは認めましょう」
「まあ、太夫。それなら」
「はい。これで四方様のことはおしまい。あの方ならきっと、もっともっとお似合いの方を見つけられますよ」
「太夫…」
何不自由のない暮らし、美しい着物や美味しい食べ物。はなは周りを見回してみる。このすべては、みきが今も萩の上太夫であるという証だ。
そういえば、養生所にも優しい女たちがいた。
廓から来たはなに対しても、へだてのない優しさで接してくれた人たちだ。はなはみきが点てた茶を飲み干す。
「おいしい…確かに、この豊かな暮しが太夫にはお似合いなのかも…これからのことはゆっくりと考えていきましょう」
「これからの…?」
みきは笑って、はなに菓子をすすめた。
「これ、頂いて帰ります。うちの人が好きなので…」
「おやおや、いくつでも持ってお帰り。はなは立派なおかみさんね」
みきは菓子をいくつか袱紗につつんではなに持たせる。
はなが帰ると、急に静かになり寂しさが胸に広がる。落合が与えてくれたこの不自由のない暮らしがみきには似合いだとはなは言う。
「私に似合い…」
みきはふっと笑ってあたりを見回した。今日はさきを落合の屋敷に帰しているので、余計に静かさが身に染みる。
久々に会った鞆哉の、あの頃のままの温かな眼差しを思うと、みきの胸は熱くなる。恨まれてもしかたのないことをしてしまったのに。
きっと自分を案じて訪ねてくれたに違いない。鞆哉自身のことは何一つ話さず、自分の今までを、そして今の暮らしを気に掛けてくれていた。
鞆哉への思いは今もあの頃と変わりはしない。それでもみきはそれを隠した。それで良いのだ。
私は萩の上太夫…自由の身になった今も変わらず、落合の殿様のおかげで暮らしている。
それが似合いなのだ、と思い込むことで鞆哉への思いを封印したのだ。
でも…このままで良いわけはない。萩の上ではなくみきとして生きなければ…
鞆哉との再会はみきの凪いだ心の中に、爽やかな微風を送ってくれたようだ。みきはみきらしく生きることの意味を考え始めていた。
弥生も終わるころになるとすっかり風も暖かくなり、行き交う人々の顔も穏やかになる。
養生所では簡素ではあったが、鞆哉とたきの祝言が行われた。医師の玄琢が仲人となり養生所の皆が出席し、二人を祝福した。
白無垢ではなかったが雪乃が贈った留袖を纏ったたきの姿は、どの花嫁よりも美しいと、雪乃は思う。
亮之進は養生所の近くに手ごろな一軒家を見つけてきたが、養生所へも玄琢の家にも近い、たきの住まいに新たに暮らすことを二人は決めた。このこともたきにとっては、嬉しいことであった。
鞆哉はたきと総衛門のことにわだかまりを持っていないという。それを俄かには信じられないたきに、鞆哉は言った。
「廓の女達を身請けする男の中には、女を物のように思う人が多くいることを見てきたし、知っています。でも田野屋さんはそうではないことが、たきさんを見ればわかる。この家でどのように暮らしていたのかも…この家で私もたきさんを大切にして暮らしたいと考えています」
事実、総衛門にとってたきは娘のような存在であった。労咳に罹ったたきを身請けし、酔狂と失笑されても総衛門は動ずることはなかった。
身請けされた女達にも、廓に残った女達にもそれぞれの生き様がある。当然だが辛い日々を送った女も多い。たきのような在り方は稀有といってよいだろう。
たきは鞆哉に巡り合えた幸せを噛みしめていた。
祝言の翌日にはもう鞆哉もたきも朝早くから養生所に顔を見せ、普段と変わらない養生所の生活が始まる。
「少しゆっくりとしても良かったのに」
亮之進はそう言うが、ふたりにとって養生所は居心地の良い生家のようなものだ。
いつもと変わらない景色、いつもと同じ顔ぶれ、それが何よりも心を落ち着かせてくれる。
二人は亮之進に礼を言いながら、顔を見合わせた。
雪乃は三人を笑いながら見ている。たきの眩しいほどの笑顔が、雪乃の胸を熱くする。
初めて養生所にやって来た時のたきは、すべての人を敵にしたような目をしていた。廓の女は皆、半分諦めを胸に生きている。ましてたきは労咳を患っており、その気持は雪乃には充分すぎる程理解できた。そんなこともあって、初めて会ったあの日から、たきを妹のように思ってきた雪乃である。たきの幸せが我が事のようにも思える。
入所していた患者が一人退所した以外は、特に変わったこともなく一日が終わり、たきと鞆哉は早めに養生所をあとにした。水入らずの夕餉を楽しんでいることだろう。
雪乃は下働きの女たちと夕餉の支度をしながら、また二人を思った。
亮之進は夜の見廻りを終えて自室に戻った。夕餉まで少し時間がある。
祝言を挙げたばかりだというのに、鞆哉とたきはいつもと変わらず養生所での役目を終えて帰って行った。亮之進と鞆哉は同い年ということもあり、兄弟と同じような存在とお互いを思っている。
鞆哉の新しい暮らしを心から喜び、幸多いことを祈る気持ちは誰よりもあるのだ。それでも、どこか寂しさを感じる自分に亮之進は戸惑っていた。
鞆哉は元服してすぐに家族をすべて失っている。それに引き換え亮之進には母がおり兄がいる。父亡きあと兄の喜之介が初瀬の家を継ぎ、喜一郎という甥とみえという姪もいる。それでも武士を捨てた自分には帰る家はなく、この養生所が唯一の拠り所なのだ。
鞆哉はたきとのことを亮之進に話したことがあった。たきといると穏やかな気持ちになれると言い、その分一人でいることが寂しくなったと笑った。
亮之進にはそんな鞆哉の気持が手に取るように分かった。それは亮之進が雪乃に対して抱く思いと同じだった。
養生所に来てもう何年になるだろうか。毎日が慌しく過ぎていき、ふと自分は一人なのだと感じることが多くなった。満たされているのに、いいようのない寂しさに襲われる。そして、その理由は分かっているのだ。
亮之進は文机の抽斗から、渡せないままの簪を取り出してしゃらしゃらと振ってみる。
簪の向こうに雪乃の笑顔が浮かんだ。
千駄ヶ谷では、はなが子ども達を集めて文字の読み書きを教えると、近所のおかみさん達に触れ回っていた。すでに数人がみきの家に集まって手ほどきを受けている。
「読み書きなんか必要ない」
大方の親がそう言うけれど、はながそうではないと根気よく説得した結果である。
裏長屋の子でも百姓の子でも、学びたいという子どものためにみきはこの家を使いたいとはなに相談したのだ。
みきは何か他にもできることを考えたいという。みきの変わりように、はなは驚きながらも喜びをかくせない。確実にみきは萩の上太夫からみきへ戻ろうとしている。鞆哉との再会がそうさせたのか、理由ははなにも分からないが、確かに今の太夫はしっかりと前を向いて歩き始めた一人の女、みきである。子ども達はそれぞれに親の持たせた畑のものや、煮売りの小鉢を携えてみきの家にやってくる。みきはどの子にもへだてなく文字を教える。かつてはなが教わったように。
そして、はなはその生き方を選んだみきを支えようと決めたのだ。
「太夫…いえ、みきさん。私はどこまでもついていきますよ。うちの人も…だってみきさんは私の大切な姉さんですもの」
「ありがとう、はな。私はいままでたくさんの人に支えてもらって生きてきました。そしてこれからも…でもね、これからは私らしく生きていこうと思うの。この家もお返しして…それが難しいことだと分かっているけれど」
「難しくなんてありませんよ。みきさんなら絶対に大丈夫。住まいは追い追いに探しましょう。手習いの他にも、何か方便となることがきっとありますとも」
みきは「そうね」とはなに微笑む。六つの時から廓に身を置き、松の位の太夫として名をはせた萩の上太夫が、一人の女として見せた美しい笑顔だった。はなはみきを誇らしく見つめた。
「初瀬先生は、どうして雪乃様にお気持を伝えないのでしょう」
夕餉を終えた鞆哉にたきが話し掛ける。
「あいつはいつもああなのだ。病人のことは素早く行動できるのに…自分のこととなるとまったく疎くなる」
「そう、雪乃様も一緒。あのお二人、本当にお似合いですのに」
たきは笑って頷く。
鞆哉は障子を開けた。すっかり暖かくなってはいるが、風が少し冷たい。雲を薄く纏った月が柔らかな光を放っている。
「月は秋が良いというけれど、私は春の月が好き。ふんわりと優しくて」
隣に並んだたきが見上げていう。
鞆哉は思わずたきを見た。宮前の母がまだ健在だったころ、同じことを言ったことがあった。たきはまだ空を見上げている。
「おぼろ月、か」
この春の月は、厳しい冬を乗越えたからこその穏やかな月なのかもしれない。
鞆哉はたきの細い肩を抱いた。
養生所の夜は静かだ。夜の内に濯ぎものをしておくと、朝の仕事が少し楽になるので、雪乃は春になってからは夜濯ぎを常としている。
水の冷たさもいくらかやわらいで嬉しい。雪乃はふと手を止めて空を見上げた。
空全体に薄雲が広がって、ぼんやりと月を覆っている。それでも月は淡い光を投げかけているようだ。
「もうすっかり春も終わり…」
明日は今日よりももっと良いことがたくさんあるに違いない。雪乃はおぼろに淡く霞む月に向って、そっと手を合わせる。
養生所に心地よい風が吹き、雪乃の好きな山法師が咲き始めるのも、もうじきである。
「さあ、もうひとがんばり」
雪乃は襷の紐を結び直して、釣瓶をぐっと引き上げる。雲の切れ目からおぼろに霞んだ月が一瞬美しい姿を覗かせ、雪乃の姿を優しく照らした。 了

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